体が喜ぶ

おはようございます。

嬉しいことは種々あります曾て修業に来ていた方が訪ねてくれるということが一つです。
早朝から夜遅くまで衣食を共にすることは格別の感慨、修業から得るものは沢山あります、何といっても生活全般のことを行うということです。全般を専門的にやる。
部分、一つのことを伸ばすのではないところに修養の骨子、要があります。
叡山開祖伝教大師様は「得手を作るな」と私たちに諭しました。得意な物を持たない私にはホッとする教え、逆を言えば「苦手を作るな」ともいえます。
得意な物を作るなといわれますと何か救われます。どうしても私たちは上手、上達したいがためにがんばります。一生懸命にやって、ふと周りを見ると自分より上手がいる、早い人がいる、そして落ち込み続かず途中で放棄してしまうことはよく見聞きします。
修業に来られた方には直接言葉に出しませんが、専門馬鹿になるなという意識で接します。もちろん的を絞って学ぶことは大事です。がしかし、人間性を高め、心にゆとりを感じることなく専門的なことに取り組んでいきますと、ノイローゼになってしまうという弊害が生じるのです。
折角能力を伸ばそう、高めようとしているのに、悩みノイローゼになってしまうのではよろしくありません。
それを知って生きる、生活することの全般を修業していただく、いわゆる心構えの土台作りが修業。
たった一つのことを行って落ち込み、ノイローゼになるという愚を犯さないためにこのことが一番大切です。
人は得手、不得手があり、つきることはありません、しかし得手不得手があっても生きていかなければならないのが人生でもあります。得手不得手というものはあらゆる面にあります。知識、技術ばかりでなく、食べ物も、人間も、匂いも何でもです。
そんな中で好きな物、得意な物を求めて行けば気がおかしくなり、落ち込む狭い人生になるのです。
専門のことをやる前に人として全般の事をやる、得手、不得手を超えて生きる事を行った結果全てを受け入れて生活することを体感、達観していくのです。
下手であっても、上手であっても自分でやったことにわがままは言えないのです。受け入れて生活、生きるしかないことを達観してこそ、これだという専門の学が出来ていくのです。
そうすることで上手を見れば感動し、下手を見れば共に在るという広い社会観、人間性が生まれ、結果小さな流れが大きな人脈となっていくのです。
掃除、洗濯、炊事、布団を敷く、上げる作務全般、一見雑事と思われることが社会を見回せば全て職業になっているから面白く、愉快になるではありませんか。
ところが多くの人は社会で活躍する人は専門的に優秀であれば活躍の場が得られると思い違いをして専門学をやってしばらくすると悩み、落ち込む。
上手下手にとらわれての勉強だったことを知らぬ故に落ち込んでいくのです。
寺に修業に来られた方は皆一様に何故修業が掃除や雑事ばかりなのだと最初はいぶかり怒る方もありますが、暫くしますと皆さん納得しますから人の心とは凄いものです。理屈で教えなくとも悟る、学校で理屈を聞いて悩むのとは百八十度の違いです。
頭の中で悩めば苦しむしかありません。寺では何でこんな雑事をと悩みますが、体を動かすことが生活ですから、体での悩みで悩みはすれども時間の経過と共に体が喜び体が悟るのです。
頭で悩みますと行動がありませんからどんどんと深みにはまりこむしかないのです。
朱子(しゅし)が「小学初題」と称し、人間の修養の第一に必要なものとして上げたのが、「尋常(じんじょう)」です。「常を尋ねる」日常を尋ねることです。
日常のことを知らずして専門、全体を知らずして部分は知り得べくもないのです。朱子はどうせよといったかと申しますと、
「凡そ人を教えるに、洒掃(さいそう・掃除)、応対、進退の節」という書き出しから始まります。
応対、進退は何事にも肝心です。どんなに能力を高めても応対進退が叶っていなければ社会からはじき飛ばされるかもしくは自ら離脱するのです。
そして続きます「親を愛し、長を敬し、師を尊び、友に親しむの道を以てす」と、慧眼です。どんなに能力が高くとも「仕える」心無ければ話にならないのです。その仕える心を養うのが「物を言わぬ掃除」なのです。それが修業の要点なのです。
掃除に明け暮れたかつての修行者が尋ねてくれる喜びがここにあるのです。あの寺ではただこき使われたと考えて下山する者も少なくないからです。

世界平和をお祈りいたしましょう。ありがとう・心に華を咲かそう。       合掌