一を以て貫く

おはようございます。

仕事始めから一週間、どんな思いで日曜日を迎えましたか?。どのような手応えを感じていますか?。
やれるぞ〜?、今一つやなぁ〜、難しそうやなぁ〜?。
皆さんは「やり通す」ということをどのように考えておられますか、いかがでしょう。
やり通すということは「志」ということです。
志とは社会的に認知されるとか、食べるためとか、金銭や物質的な面で楽になるという次元ではありません。
「このように生きるぞ〜」という自分の精神世界の確立のことです。
ですから社会的に受けるうけないではなく、自分が社会に対する「使命感」でもあるのです。
「一を以て貫く」。
これは論語「里仁篇(りじんへん)」第四、十五条に「子曰く、参(しん)や、吾が道、一を以て之を貫く。曾子(そうし)曰く、唯(い)と。子出(い)づ。門人問いて曰く、何の謂(い)いぞや。曾子曰く、夫子(ふうし)の道は、忠恕(ちゅうじょ)のみ。」。
意は「参よ、私の道は一つのものを以てつらぬいている、と言った。(その内容は明示しなかったが、一貫の道はもちろん仁であったであろう。)これに対して曾子は、ただ簡単にハイと答えて、それをうべなった。この談話を交わして孔子が席を立った後、孔子の真意の了解出来なかった他の門人達が、曾子に向かって、先生の意はどこにあったか、と質問した。それに対して曾子は、先生の道は忠恕すなわち心からの思いやりだけである、と答えた。」。
孔子一貫の道が仁であることは、誤りのないところです。然るに、曾子が忠恕のみと答えたのは、忠恕が仁の道に至る最も適切な方法であるというところから、その道に至る方法を示したものであります。
忠恕とは、中心を忠となし、如心を恕となすというのが文字の本義です。すなわち自分の心のまことが忠であり、自分の心と同じように他の心をおしはかるのが恕であります。
朱子は「己を盡(つく)す、これを忠と謂い、己を推す、之を恕と謂う。」と説明しています。
すなわち自分の心のあらん限りをつくす、換言すれば、まことを現すことが忠であり、己の身に省みて同じ思いを他人に推し及ぼすことが恕であるというのであります。
ではこの忠と恕とは、二つ別々のものであろうか。中心といい盡己といっても、要するに己のまことをあらわすことであるのです。
人の為に謀って誠をあらわすためには、まず以て己が心に誠がなければならず、かくて初めて自分の境遇を推しひろめて心から他を思いやることが出来るのでありますから、恕に至らんとすれば、前もって忠がなければならぬ訳であります。
その点から考えれば、忠と恕とは二にして一、一にして二であり、結局、忠恕は思いやりの心になるのです。
思いやりの心が仁に至る最善唯一の方法であることは疑いがありません。孔子はこの「一つの道を貫いた」のであります。
私たちもまず自分の心に誠を尽くしそれを押し広めて行くことこそが大事なのです。さて皆さんの「一は」何でありましょうや。
明日は「にんげん学」合同講座、午後2時から一年一度心華寺での開催であります。初講座は特別講座です各地の皆さん是非率先してご参加ください。夕刻からは新春祝賀会も催します。

世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。               合掌