仏飯

おはようございます。

お手紙やお電話、メール又ご来寺いただき年末のご挨拶をいただいております。又お歳暮も全国の皆さんから沢山お送りいただき感謝するばかりです、ありがとうございます。拝見して毎年思うことですが沢山の方々に支えられて来たことを実感し、お返しできるであろうかとただただ手を合わせるだけです。
そんな思いの中昨日は皆様にお供えいただきましたお正月「お鏡餅」を誠澄が電気餅つき器でついて沢山のお餅を丸めました、お供えいただきました皆様ありがとうございます。ご本尊様もお喜びであります。
「お仏飯」。
「ぶっぱん」と読みます。日々私たちがいただくすべてを仏飯といいます。仏様が下されたということです。私にくだされたのではなく、ご本尊様にお供え下されたのです。ですから合掌してちょうだい、いただくのであります。あなた様がおられて私の存在が在るという心です。
合掌は「右手は仏の象徴であり清らかなもので知恵を表しております。また左手は衆生、つまり自分自身、不浄さを持ってはいますが行動力の象徴でもあります。両手を合わせることにより、仏と一体になることや仏への帰依を示すとされています。そして 人様に向かって合掌をすることは、その人への深い尊敬の念を表しているのです。」。
とにもかくにも「ちょうだいする」という心です。漢字で書きますと「頂戴」です。「頂きに載せる」ことです。私たちの体で一番上に在り尊いとされる頭、意識の上に載せるという意味合いもあります。
御仏の頭頂に「肉髻(につけい)」(御仏の頭頂の膨らみ)があります。肉髻の中には「広大無辺な徳」があるのです。ですから「頂戴する」ということは、御仏の偉大で「広大な徳をいただく、ちょうだいする」ということです。
そのような心で何事も頂戴します。そうすることで慢心を防ぎ、増長心を防ぎます。御仏の存在、御仏の教えがあるからこそ、自分の人生を表現、人生が在る。感謝すればこそであり、誇ることなど何一つなく、ましてや威張ることなどできもしないのです。
私たちが食事をいただきますときにお唱えします食前観、食後観があります、どのような思い、心を持って食事を頂戴し、終えるかということです。
食前観「我今幸いに、仏祖の加護と衆生の恩恵とによりて、この清き食を受く、謹みて食の来由を尋ねて味の濃淡を問わず、その功徳を念じて品の多少を選ばじ。いただきます。」。
食後観「我今この清き食を終わりて、心豊かに力、身に充つ、願わくはこの心身を捧げて己が業にいそしみ、誓って四恩に報い奉らん。ごちそうさまでした。」。とお唱えしていただき、終えるのです。
四恩とは1、天地自然の恵み。2、先祖の恩。3、両親の恩。4、仏の恩をいいます。
四恩は当然と言えば当然の恩です。天地自然の恵みがなければ何も存在しません。ご先祖様が居られなければ当然今の私の存在はありません。ましてや両親があったからです。人の歩む道を示してくだされた御仏に感謝し、安心して歩むことほど楽しいことはないのです。その恩に報いずして報恩とは言えません。
欲を深くし、忘恩としますと自分の力だ、一人の力だというようになり、物心共に飢えることは間違いのないところです。年末を心豊かに過ごしましょう。年末年始のお休みに食前観、食後観をご家族でお唱えしてはいかがでしょう。今日も素晴らしい一日でありますよう。

世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。 合掌
 私たちは東日本大震災の復興を祈り応援します。
写真はお鏡餅と、お正月におまいりにこられた皆様にお下がりとしてさしあげます、家庭円満、仕事円満、子孫繁栄等々、まぁ〜るく、まぁ〜るくと縁起の良くなりますようにとの願いを込めて丸めました「円満丸小餅」です。丸小餅と「よろこんぶの昆布とミカン(日本一美味しい八幡浜、一生園産)」をご一緒に差し上げます。皆さんお正月初詣にお出かけください。癸巳の年は最高の年になりますよ。
鏡餅のお手伝いをいただきました、ご近所のKさん、大阪から泊まり込みで来て下されたYさんありがとうございます。


そして亀岡市のMさんが一年分の護摩木をお持ちくださいました。Mさん毎年のご奉納ありがとうございます。安心して日々護摩を修することができ、皆様に護摩のご利益をいただいてもらえます。昨日はご一緒に長時間護摩修法にご随喜いただきありがとうございます。