おはようございます。

皆さんは友達を欲しいと思いますか、それとも友達にと願って欲しいと思いますか、どちらも難しい問題です。ではどのようにしたら友は得られるのでしょうか、「目指すもの・志」を持ったときではないかと私は考えるのです。
人並みにとか、人と一緒にとかはなかなか難しいものがあります。常々私は共にとか一緒にとかの表現を使っておりますが、これは意識のことであって、内面の心の持ちようをいっているのです。
昨今の不登校や出社拒否症などはこの「共に、一緒に」ということが「強迫観念」となって現れているのではないでしょうか。
共に歩もう、一緒に歩もうというのは「意識」の問題で、現実に目標を友達と一緒に掲げても同じようにゴールに入るなどということはあり得ないのです。
友という意識は「意識、観念」であって、互いが互いに誓い合うということもあるとは思いますが、自意識で思うことが大事であって、宣言し誓い合うなどという類のものではありません。
言葉で友や同士を叫ぶときは意識が弱く又は何か腹に一物を持っていてそれをカバーするために鼓舞することのような気がしないでもありません、穿った見方でしょうか。
人の意識は言葉に出さなくとも必ず現実化され、行動に表れます、誠のある人の行動は信頼のあるものです。
目指すもの・志を持ちますと意識はどうなるかといいますと、「孤独感に陥らなく」なるのです。目指すものや志を達成するには「道理」が必要となります。道理は「真理」を教えてくれますので、同士が出来たとしても同時には進めない事を知り、先であったり、後ろであったりと様々な現実を知るのです。
そして「現実から学ぶことがなければ道とはならない」ことも知るのです。
現実から乖離した道などはあり得ず、そのような道理を学んでも何もなりはしないのです。孤独感を感じるということは目指すものがない故から来るのかも知れないことを知って欲しいと思います。
話す友がおらずに孤独になっても「書の中に友が出来・思い、意識の中に友も出来る」ことを知って欲しいとも思います、私は叡山から下山後数年は孤独感に苛まれました、時に経文の中に友はあり、師があり、同士ができ、今日があるのです。
弟子・誠澄が現在「断食・断水・不眠・不臥」一週間の捨身行に入っているのも大いなる同士でもあるのです。

世界平和をお祈り致しましょう。ありがとう・心に華を咲かそう。    合掌

12月3日午前10時より心華寺にて、がん・中風・ぼけ封じ「大根焚き」お灸かぶり法要、行者・誠澄が「断食・断水・不眠・不臥」の決死の行にて加持祈祷致します。是非当日はお参り下さい。