おはようございます。

7月も半分を過ぎました、早い早いと毎日思います。何か梅雨が上がってから雨が多いようにも思います。人生とはこのようなものかもしれません、こうなって欲しいというという思いはなかなかにならず、そうでない事の方が多いようです。しかしじっくりと考えてみればやはり半々なのでしょう、きっと。吉凶は糾える縄の如しともいいますから。自分の都合の良いようにはならないのでしょう。何一つわが物というものはないのですから。
時々この年になっても自分が嫌になるときがあります、それは「人を疑うとき」です。信じなさいと教える、説いている自分が人様を信じられない、辛く悲しくなり、自分が嫌になるときがあります。
「常」。
しかしそんな私は「常のあることに救われています」。常とは朝起きて「ブログを書く、読経を行う、護摩を修す、勉強する」等々。日課として常があることで「自分が取り戻せる」からです。
どんなに大きな喜びがあっても、哀しみがあっても自分を「かろうじて制することが出来る」のです。祈りがあってよかった、学びがあってよかった、師に日課の大切さを教えていただいてよかったと感謝するのです。一昨日は師のお誕生日でしたので、お声が聞きたくなり「おめでとうございます」を述べ、師のお声を聞いただけで慰められました。
そこで又気づかされました、師に対するように「求めない」ことが大切なのだと、求めるために「自利利他」を歩んでいるのではないのだと、利他が自利だぞ、師は「ありがとう」ということば以外何もおっしゃいませんでしたが、「最誠、お前求めて苦しんでいるのではないか」というお声を聞いたようでした。
論語、述而第7、32条に「子曰く、文(ぶん)は吾(わ)れ人の猶(ごと)くなること莫(な)からんや。躬(み)もて君子を行うことは、則(すなわ)ち吾れ未(いま)だ之(これ)を得る有らず。」
意は「孔子言う、学問の方は自分もどうやら人なみに出来ないこともなかろうと思うが、君子の道を実践躬行(じつせんきゆうこう)する点になると、自分はまだまだ駄目である。」を思い出し恥じています。実行については及ばず、穴があったら入りたい心境です。単に学ぶのではなく実践躬行が大事です。やはり師のお声を時々聞き、心が外に惑わされていることを知り、心を引き戻すためにも原点にもどることの大切さを思い知らされました。日常、常のあることに感謝です。
連休あけです、今週も目の前の事に無心になり多くの人様の為にご活躍ください。「京都版・ぶら和尚」ご参加の皆さん後ほどお会いしましょう。今日もお元気でお仕事ください。

世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。 合掌
 私たちは東日本大震災の復興を祈り応援します。
宇治市役所の駐車場から夕方の西空。


期日前投票に行ってきました。


今朝の空、久しぶりのお天気です。