四を絶つ

おはようございます。

「京都版・ぶら和尚」ご参加の皆さんありがとうございます。突然の欠席で申し訳ありませんでした。のっぴきならない用件であったため失礼を承知で欠席させていただきました。仏の道を歩む者として東寺さんを拝みたかったですね、水族館は私が望んだコースでしたので残念至極です。縁を作り縁が無かったのだと思っています。次の「京都版・ぶら和尚」にはご一緒出来ますよう改めて精進致します。
「四を絶つ」。
論語、子罕(しかん)第9、4条「子(し)、四(し)を絶(た)つ。意毋(いな)く、必毋(ひつな)く、固毋(こな)く、我毋(がな)し。」。数日この弊害を感じています。この「四を絶つ」とは、どのようなことかということを書いてみます。
意は「孔子は意(い)・必(ひつ)・固(こ)・我(が)の四つを棄(す)ててしまったので、従(したが)って孔子の行動には、この四つの弊害(へいがい)がなかった。」
この条は門人が孔子の態度を観察(かんさつ)して記述したものであります。意(い)とは、億(おく)と同じで、先方(せんぽう)、相手がまだその意志を表明しない前に、こちらから気を廻(まわ)して先方の考えを推(お)し量(はか)ることです。
自分が勝手に気脈が通じたと勘違いし助言を行い「小さな親切大きな迷惑」をしてしまい問題を起こしてしまいました。
必(ひつ)とは、事を為(な)す場合に、必(かなら)ずやり通すときめこむこと。このことも私の生き様を人様に押し付けになっていました。
固(こ)とは、事を守る場合に、この事は断(だん)じてしないと頑固(がんこ)にみずから守ること。このことも自分が守っているからと、自覚のない相手に押しつけてしまいました。
必(ひつ)と固(こ)とは、為(な)す場合の悪癖(あくへき)です。共に君子の、可(か)もなく不可(ふか)もなく(微子篇(びしへん))、義(ぎ)と与(とも)に比(したが)う(里仁篇(りじんへん))とか、或(ある)いは、時に中(ちゆう)する(礼記(らいき)・中庸(ちゆうよう))とかの態度と違(ちが)うもので、相手のことを何等考慮していなかったのです。偏った考え方になり自分も窮屈に考え、人様にも窮屈な思いをさせていまったのです。このような思考からは何一つ良いアイデアなど湧くはずもないのです。
又我(またが)とは、すべての事柄(ことがら)につき、己(おの)れ中心に考え、己(おの)れ中心に動くことです。お話をさせていただいているのに、「させていただいているという謙虚さを失い、傲慢になっていた」のです。
要するに、この四者は共に小人(しようじん)の性行(せいこう)において見るところだと孔子は教えています。孔子はこの四者を絶棄(ぜつき)したため、その言行(げんこう)において四者の弊害(へいがい)がなかったというのです。決めたことは決めたこととして精進するもので、努力するものではないという事を、この数日心身に痛みを感じて反省しています。
どんなに善いことであったとしても、心に余裕を無くし、人の心に配慮ができず、押しつけるようでは、人様と共に歩み、導くことなどは到底無理は話だと、己を修めることを一からやり直そうと考えています。
「心学」を修めていた故に反省でき、行動を新たにしようと思えたのでしょう。改めるに憚(はばか)ることなかれですね。

世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。 合掌
 私たちは東日本大震災の復興を祈り応援します。
皆さん仏様に導かれ楽しそうですね。