心の引き出し

おはようございます。

私が心華寺に来て35年、入山後一年くらいの時に中学一年生の子と一緒に一年暮らしました。この子が最初に一緒に暮らした子です。当時私自身一日一食くらいしか食べられない時期でしたから、どうして食べていたのか、今は記憶の彼方で忘れてしまいましたが、分かち合って食べていたのだと思います。
中学生や高校生が私と一緒に暮らすのは親から言われたらから、仕方ないから、自分からの三分の一ずつ分かれていました。大学生は自分から進んでがほとんどです。今18才の少年が一人修学しています。
「心の引きだし」。
いろいろな方と一緒に修行しているのは何も私が出来ているからではありません。何故このようにいろいろな人と共にするようになったのかと考えたときがあります。そしてある時「私が不出来だったから」という思いに至りました。
子どもの頃から私は「孤独感が一杯の子」でした。共に遊びたいのに遊べない、共に学びたいのに学べない、という現実の寂しさがありました。今日こそはという思いをしながら最初は遊び始めるのですが、やはり「ついていけない」、勉強も同じです。
そんなとき、どこか心の奥底に「誰か一緒にいてくれないかな〜」という思いがあったのかも知れません。
そんな意識があって、無名の寺、無名の私に相談に来てくださり、以心伝心、頼りにして下されたのかもしれません、私は二つ返事で子ども達をあずかりました。
一緒に生活をして教えてあげられるのは「心の在りよう」だけです。かつて子どもの頃、何か困った事態に出遭いますと、算数ができないから、国語が出来ないから、運動神経が悪いからと、その一々を理由にあげて避けていました。
勉強は算数、理科、社会、国語といった具合にありますが、知識の引き出しは幾つもあるかもしれませんが、そのことに対する「心の引き出しは一つ」です。
出来る人と出会って、いつも私は「あの人は出来るから出来るのだ」という理屈にならない理屈をつけて避けていつまでも出来ない私であったのです。そう出来る人は「出来るようになるまで努力した」のです。他の科目も同じです。理由にならない理由で全てを出来ないようにしていたのです。
「心の引き出しは一つ」だということに気づくまでは。「己の心を乗り越えるしかない」のです。
いろいろな人がお寺にやってきて修行し研修に来てくださるようになりましたが、私はいろいろやれるから、知っているから来てくださるのではないと思っています。「共に」という気持ちがあったからいろいろな人が私を生かしてくださるようになったと、感謝しています。
そして修学している若者や、研修に来てくださる皆さんに「心の引き出しは一つですよ」という真実を体感、体得していただきたいのです。算数用の辛抱もなければ、ゴルフ用の辛抱の心もなく、「辛抱という心の引き出しは一つ」なのです。
その事実を日々の日課の中で体得してもらい社会に復った時、不死鳥の如く、モチベーションが落ちることのない人生を歩んで欲しいと念じている日々です。今日もいろいろとするのではなく、一つの心で精進し楽しく過ごしましょう。

世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。 合掌
 私たちは東日本大震災の復興を祈り応援します。
昨夕の西空。