方法は正すこと

おはようございます。

昨日も暑かったですね、体調をくずさぬようにしてください。
毎日の報道で考えられない、えっ〜ということが余りにも多いことに驚きの連続です。
原因は様々考えられますが、
一番は何事も「原因は我にある」ということの「自覚の欠如」ではと考えられます。

人は失敗したり、つまずいたりは普段にあることです。
日々の生活の中で事を行うときには必ず「方法」により行動することは間違いがありません、
そして結果が生じる。

方法によるとはどのようなことでしょうか、身を以て「法を用い体現する」ことです。
法は意識を持ちません、法を用いる私たち自身の「意識を通して体現」されるのです、
この自覚が大事なのです。

道具は意識を持たず、それを使う私たちが意識を吹き込むのです。
方法の「方」とは「正す」という意味があります。
「法」によって目標に向かうのですから、誤ったら「自らを正す」ことが目標に達することが出来るのです、
正すことが出来なかったときに「他によって正される、罰を受ける」こととなるのです。

そこで問題なのは「道徳律」です、
考え方をそこまで高めていきませんと必ず身の破滅が待っているからです。
学問や知識をいくら得ることが出来たとしても「正す」こと、自分を正すという意識が根底に無ければ「天網恢々疎にして漏らさず」ですから、人間の目をいくら誤魔化すことが出来ても「天罰は下り」必ず「人の手によって罰せられる」こととなるのです。

そこで又「問題」なのです、人の手によって「罰せられる」わけですから、知識人は理解が良すぎて「上手の手から水が漏れる」の譬えがあるとおり、天を恐れませんから、正すことが無ければ人生を過つこととなるのです。

それは「人を軽んじ、天を軽んじ、道徳を軽んじた」結果でもあるのです。
「方法」は「正す」ことにあるのであって、方法に「忠実」であれば、「我も人も社会も良し」の「三方良し」となるのです。
私たちは知るという事の素晴らしい「徳」を授かったわけですから、「道徳律」を持たねばならないのです、
そうすることで不幸なことを招くことのない人生の確立がなされるのです。

今夜は愛知・一宮での「にんげん学」講座です、経営という真理の営みを為されている皆さん、是非「にんげん学」を学び心魂を傾けて経営されてきた会社を破滅に導くような愚かなことにならないよう自らを「道徳律」によって戒められる「人格」を目指しましょう。
「人格の格」も「正す」と読みます、人として「どうあるべきか」を正すことが会社の繁栄の要でもあるのです。

明日は中部地区「心に華を咲かそう会」第四回「チャリティゴルフコンペ」雨が降らないとを祈るばかりです、参加者の皆さん賛同者の皆さんよろしくお願い致します。

世界平和をお祈り致しましょう。ありがとう・心に華を咲かそう。       合掌