出来ること、出来ないこと

おはようございます。

昨日は小春日和のいい天気でした。そんな中、研修生と一週間テスト期間のイギリスの青年が帰っていきました。
研修生の帰りはいつもの如くに見送り背中に「素晴らしい人生を」と念じつつ送り出しました。一方のイギリスの青年には一抹の寂しさと私自身の力不足を残念ながら実感しての見送りでした。
一生をかけての修行には「見切り」も大切です、私の所での修行は現在では無理があったからです。この経験を無駄にすることなく次の弟子候補には接したいと新に決意しました。
何事でも「出来ることと、出来ないこと」があり又「出来ても、しないこと」もあります。「出来ても、しない」ということはしたくありません、皆さんも同じようにお考えのことと思います。この度の指導は「出来ないこと」の部類でした。
いくら情熱があっても出来ないときもあるのです。その時はやはり真摯に「論理的」に考えなければなりません。生活習慣も価値観も違う国で育った人にはやはりある程度の「集団の中」で育てること、周囲に「お手本が多くあること」が大事です。
この事は他のことにも云えることです。会社でも家庭でも育てるには「手間暇をかけて」することが大事です。じっくりとでなければ「人は育たない」のです。
現在のお寺は少数精鋭でやっており、私の修行、弟子の修行の時間が余りにも育てるという余裕がないのです。こう考えますと彼の人生を徒に経過させてしまうだけとなり時間だけが過ぎ去っていくからです。
しっかりと話をして別の寺での修行をするようにしたのです。才能もあり、能力もある人に対してはやはり心苦しいものがり、寂しさはありますが、他の場所でという結論を出したのです。
切磋琢磨する相手がなければ人は磨かれません、どんなに出来ると考えても無理があるのです。「出来ることと、出来ないこと」いくら情熱があっても異国から来た青年にはもっと相応しい所があると説得し、帰っていただいたのです、彼の口からも寂しいという言葉があり、何とも返答のしようがありませんでした、しかし私への救いでもありました。
明日は「心華大祭」の「採燈大護摩法要」があります。外護摩の大火炎に護摩木を投じ心願を念じてください、午前10時からです。

世界平和をお祈り致しましょう。ありがとう・心に華を咲かそう。     合掌