型に嵌める

おはようございます。

昨日は午後から一泊二日で管理職研修生を迎えました、あいにくの空模様でしたが割合に暖かく、でも研修生は素足ですのでやはり厳しいとは思っております。
最近は「強制」という言葉や表現は時代的にそぐわず、「型に嵌める」ということも嫌がられます。寺ではその嫌がられるのを未だやっておるのが現状です。
世間的に嫌がられているということは百も承知でやっているのです。因果といえば因果なことです。
理由があって行っていることで、昨日も書きましたが「因果」だからやっているとも云えます。
社会人生を歩む上においては自分の条件や都合に合うなどということは少ないでありましょう。これまた皆知っているはずです、がしかし、いざ条件に合わないと「不服や不平を言う」のも事実です。
何故強制や型に嵌められたがらなくなったのでしょう、私見ですが、「自主性ということが真に理解していない」ことと又「学ぶ」ことの「本義を理解していない」からかもしれません。
「学ぶ」の原義は「まねぶ」から来たことは以前から話をしております、「憧れ」からです、「ああなりたい」と「なにがしかを見て」人生の目標を自分で決めたはずです。
この事はある意味では「型に嵌める」ことを願ったことでもあるのです。又結果的に「強制」をも望んだことになるのです。この自覚が大事なのではないかと私は思うのです。
今日のような「教育体制の熟成した時代では」教えてくれるのが当たり前となっておりますが、臨んでいない者に教えることくらい「至難」はないのです。
それは「不平と不満」しかならないのです。多くの人は乗り越えられるではありましょうが、臨まない者に教えることは難しいことです。
寺の研修では「率先してきた、自主性を持ってやってきたという前提」から指導、話をしております。ただ闇雲に強制するわけではなく、型にはめ込むわけでもありません、以上のような話をしてから研修を進めているわけです。
何事も「型に嵌めなければ形にはならない」と私は信じており、事実であろうと思っております。指示をされたことを「強制」ととるのかどうかは、それぞれ意志決定、選択の自由があるわけですから、否定されればどうしようもないということと覚悟をしてはおります。
何事も道理に添い、従うことが自己完成を導くものなのであります、日々お勤めを行っておりますが、この事事態が「型」であり、その型があったお陰で様々な「覚り」を得られたと感謝をしております。
どんなことでも「慣れ」るまでは苦は伴うものなのです。目指すレベルが高ければ高いほど「型があり」自分を律する必要性、自律することは自分で自分をある意味では強制することではないかとも考えております。

世界平和をお祈り致しましょう。ありがとう・心に華を咲かそう。     合掌