認める愛

おはようございます。

昨日は冷たい一日で、これまで暖かい日が続いていたせいか一入寒さを感じたようでした。例年であれば普通なのでしょうが。
今夜は「にんげん学」一宮講座、講座の前に一仕事がありますのでこれから愛車に乗って快適に出かけようと思っております。
人が悩んだり苦しんだりすることの原因の一つに「理解されていないと考える孤独感」があるのではないでしょうか。
さてこの事を素直に考えてみますと「人のことを理解しておりますか?」という逆の質問が起きてきます、いかがでしょう?、人様のことを理解しておりますか皆さんは。
別の表現をすれば「言うことを聞いて欲しい」と願っているといってもいいでしょう。これは「求める苦しみ」です。求める対象を間違えているのだ、ということに気づいて欲しいと思います。
もちろん私にも「応えて欲しい」という思いはあります、この思いは人様より強いかも知れません。
だが「全てに応えてくれなければ」と考えたときそれは「暗闇の人生しかないのではないでしょうか」、それは権力思想であり、わがままな思いを増長し、誰にも信頼を得ず、好かれることもないでしょう。
人様を理解していないにもかかわらず、自分を理解して欲しいと願う、こう考えれば人間という生き物は結構勝手で、わがままなものではないでしょうか。求める相手を持たないときにはこのようなことは冷静に考えられて当然のこととして「わがままだ」ということが理解されるはずです。
ではどうすれば求めても苦しまないようになれるのか、ということです。苦しんでも良いのですが、苦しみにだけ「執着しない」ようにということです。執着すれば「周囲も見えず、何も聞こえず、地獄が待っている」だけとなるからです。
その方法は「認めるという愛」です、「慈悲・愛に目覚める」ことで「苦しみから解放される」のです。
知るということで素晴らしい人生をという風に皆さんはお考えのことと思います、その「知ること」を「認めるという愛」を加えて下さい。自分の知識にあることばかりで人を判断しようとすれば必ず行き詰まり、壁に当たってしまうのです。
そうならないためにも「相手を認めてお付き合いをする」ということで確かな「お付き合い」が出来ることとなり、「理解されない、していない」という悩みから解消・解放されるのです。
人を疑わない、自分を疑わないという人生は魂をきれいにし、皆さんを輝ける人生、清々しい人生に導くのです。そして又素晴らしい出会いがあるのです。

世界平和をお祈り致しましょう。ありがとう・心に華を咲かそう。 合掌