祈りと奉仕と

おはようございます。

昨日は沖縄全戦没者追悼式がありました、先の大戦で国土で唯一戦地になった沖縄、戦後62年、私たちは体験していないからこそ平和を祈り、沖縄の人々の心を大切にしなければなりません。
教科書で書き換えられた集団自決、一般の人々の無念の心を忘れてはならないでしょう、追悼のお祈りを捧げたいと思います。
今日は24日午前10時から愛宕寺の「月例幸福護摩祈願祭」です。どうぞお参り下さい、そしてご奉仕ください。
奉仕、素晴らしい言葉です、そして素晴らしいことです。しかしこれがなかなか難しいことなのです。
先日皆さんと比叡山に報恩登山を致しました。奉仕とは私は「滅私奉公」と捉えております。そこからは何も得ようとは考えないということです。そのような気持ちで比叡山での生活を10年送ったのです。
このような気持ちになった原点は「何も出来ないという自覚から」です。何も出来ないということは何も出来ないのではなく、人と比べて上手くできない、早くできないということであって、何も出来ないという訳ではありません。
人様のために働くということの意味合いはいくつかあると考えます、「1、よく物事ができる。2、完成度の高い技術を持っている。3、物事をしっかりと理解している。4、人様に役立つ物を提供できる等々」で、もっと上げられますが代表的なものはこれくらいでしょうか。
こう考えていきますと私にはどれも当てはまらない、そこで「できることで仕える」という答えが出たのです、仕える「お手伝いをする」という「奉仕の在り方」です。
その事に喜びを持って当たる、それ以上何ものも求めない。自分が自分で生きているという実感、誇りのようなものです。
毎日どなた様もお仕事をしておられることでしょう、それも同じ事のくり返しです。ほとんどの人がそれで立派に仕事をして貢献していると考えているから不思議です(ハードでダーティな事を書いているようですが、これは批判ではなく事実としてお読み下さい)、如何です皆さんは、私はこのように考え思ったのです。
何も考えずに「やれている」のです。そして当然のこととして給料を貰っている、ありがたくちょうだいするなどという意識を余り持たずに、権利だと考えている。
それはそれで結構なことだと私は思うのです。が、そこでです、少し考えてみましょう。私などは同じ事をくり返している代表選手のようなものですから、それで何か立派なことをやっているように考えている、これは大きな誤りだと考えたのです。
そして「奉仕」という結論に至ったのです。あとは「ひたすら懸命に」過ごしました。そして現在です。
皆様のように知力もあるかたが奉仕の精神に裏付けされたらどれほどの素晴らしい人生を展開するものとなるのでしょう、まさしく「鬼に金棒」です、是非お参りいただき掃除や後かたづけのご奉仕をお願い致します、お待ち致しております。
それ以上に共に声を出し祈ることが魂に響き楽しいのです。

世界平和をお祈り致しましょう。ありがとう・心に華を咲かそう。   合掌