当たり前のことを

おはようございます。

昨日も暑い一日でした、一週間ほど心華寺を留守にしましたので手紙の整理やいろいろとたまっていたことを済ませる一日でもありました。
今月はお盆の月、ご先祖様の月、供養の月と言ってもいいでしょう。真夏、暑さ厳しい中で感謝の心を込めてご先祖様へ尽くす、この月だけとは限りませんが、古人は厳しい故にこのような行事を作ったとも考えるべきでしょう。
私たちはややもすると苦しいときは「人を思う心を失いがち」となり、また「助けて欲しいの思いが募る」ものです。
地獄へ堕ちますと食事をいただくときの箸が一メートルもあるような長い箸で食べなければならないそうです。長い箸では食べられませんので、手でつかんで食べようとしたり、他の方法で食べようとすると、食べ物が炎と化して燃えてしまうのです。
しかし地獄へ堕ちた人は自分のことしか考えませんから、食べられなければ食べられなくなるほど人のことを考える余裕も無く、食べることに執着して他の方法で食べようとするばかりです。
しかし食べられませんから地獄の苦しみを味わってまた死ぬのです、ですが死ねません、また苦しい地獄へ生き返されるのです。苦しみを何度も味わうしかないのです。
一方極楽はどうでしょう、極楽も食事は同じように長い箸です、でも極楽では自分だけ食べようなどと考える人は一人もいないのです。
そうお互いに食べさせ合うのです。長い箸を使ってお互いがお互いの口に運んであげるのです、あげるのではなく、運ばせていただくのです。このような人が極楽へ行くのです。
この両者の違いが極楽と地獄の違いです。
食べさせていただく、こんな風景は何も「あの世に行かなくてもみられる風景です」、どこででしょうか?。
子供や赤ちゃんには親が自分がいくらお腹がすいていても先ず子供に箸を使って食べさせるのです。これが親子の姿、これが仏の姿、これが極楽の姿なのです。
赤ちゃんの時は自分が知らなくとも長ずればそのような風景は誰でも眼にすることです。
親でも子でもお腹はすくのです、親だからといって食べないわけにはいかないのです。そんな空腹を感じていても先ず子供にあげる、苦しくとも相手を思いやるのが「自然」なのです。
でも最近はこの「自然な行為が」おかしくなっております。なぜでしょう、「教えない」事が一つに挙げられます。「ご先祖様があっての私たちですよ」という「極々自然な教え」です。
変わったこと、人と違うことができる人が「偉い」と、何か間違ってしまったのです。
人は困ったり、苦しくなったときにこそ「助け合う」ことが「本当は自然にできる」のです。いまは「当たり前のことを話す」ことが少なくなってしまい、苦しかったり、辛かったりしたとき本当は「感謝」しなければならないのに、「鬼になってしまう人が多く」なってしまいました。
苦しいから優しさを思える、辛いから楽しい事を考えようとすることができてくるのです。そんな自然なことも「当たり前のことを教える」ことから始まるのです。
今月は「お盆の月」です、月末には地蔵盆もあります、お地蔵さんは子供を守り育てるという菩薩様です。お地蔵様は苦しみの中に在れば必ず助けに行くという「誓願をお持ちです」、「六道輪廻の主」ともいいます。苦しみもがいている中に率先して入り導く、「母親そのもの」です。
今月は夏休みでもあり、勉強も大切でありましょうが、まずご先祖様への感謝を「当たり前に」できるきっかけを作ってみてはいかがでしょうか。
そうすれば自分だけのことを考えることのない、思いやりのある「当たり前の家族ができる」のではないでしょうか。家族皆で働き学び手をつないで歩む家庭が一番なのです。子供ができるときどのような思いで誕生を祈ったでしょう、
「五体満足でありますように」です、他のことは願わなかったはずです、人より優れて云々ではなかったはずです。
それがいつしか自分のことしか考えることができないような人間が多くなってしまった、私たちは「自分の存在以前にご先祖様があり多くの人があったことを思えば」偉ぶらず、慢心もせず、独りよがりにならない、当たり前の「家庭が育まれる」のです。今月はご先祖様へ「感謝の月」といたしましょう。
感謝は人との輪が広がる繁栄の大本でもあるのです。

世界平和をお祈り致しましょう。ありがとう・心に華を咲かそう。         合掌