不器用に

おはようございます。

昨日は霜降でしたが下関は暑い一日、皆さんと一緒のお祈りも熱くやはりいいものです。護摩の炎も喜んで煩悩を焼き尽くし願いを叶えてくださいました。
人生を歩む上で自分は「不器用だと考える」くらいがちょうどいいと思っております。そして「今できていることを確かにしていく」。
「核をしっかり持つ」といってもいいでしょう。思いや夢は果てしないものです。核を持たずに歩まなければ、「自分が自分に翻弄」されるからです。
器用貧乏といわれる人がありますが、このような人をいいます。「何でも出来るから何にも出来ない」、核を持たない。
「何にでも勝ちたいと思わない」ということでもあります。昨日書きました感謝の出来ない人にこのような思いの人が多く見受けます。出来るから人の風下に立ちたくない。
自分を確かにしていくほど確かな人生はありません。それを怠って外に目を奪われ、心を奪われることであってはせっかくの才能も進化できないのです。
「才能」とはどのような意味でありましょう。「才」とは「わずか・少々」ということです。年齢を数えるときに一才、二才と数えていくように、「一段一段、一歩一歩ということ」です。
外に目と心を奪われせっかく才能があるにもかかわらず、それを生かさないというのは、才能が豊か、もともとあったように思い違いをしているからです。才という字が示しているように、少しずつ磨きをかけていくことが大事ということです。
才能ある人は「わずかな」自分の出来ることを「伸ばした人を才能ある人」というのです。
真の言葉を知ることが「知の人」です。不器用であることが「才能を伸ばす要」であります。
しっかりと「核を持ち」少しずつ不器用に人生を「大胆に」歩みましょう、悩んで歩むことより「不器用に自信を持って」歩めば大きく輝くのです。
明日は「にんげん学」小倉講座、道を歩んで豊かな人生を堂々と歩んでいきましょう、上手下手は際限ありません、外の世界に目と心を奪われ自分の人生を虚しくする愚はやめましょう。
不器用に自分を磨き、自分に誠実に歩んでいきましょう。

世界平和をお祈り致しましょう。ありがとう・心に華を咲かそう。 合掌