困ったら学べ

おはようございます。

今朝は昨夜からの雨ですが、秋晴れの高い青空は心まで澄みわたります。日差しも強くなく仰ぎ見ることが出来る。
自分の人生も天の果てまで続き未来が輝いていそうな錯覚さえ覚えます。
仰ぎ見る、上を見ることは私は大好きです。自分の可能性を信じられるような気持ちになるからです。
たわいもないことなのですが、嬉しくなる。
下を見るとやはり落ち込んだり、不満や不平になり、小言を言いたくなってくるような気もしてきますから気持ちとは妙なものです。
山の上から下を眺めるのは上を見るのと同じような気持ちになるからこれも不思議です。
やはり人生は果てしない上を見、果てしない下を見て、余り「現実に埋没しないこと」も大事です、気分が爽快になる。
このように爽快な気分になるのは「学ぶ・祈る」ことでも感じます。
ナゼ祈る学ぶことで現実に埋没せず、やる気、モチベーションが落ちないのか、
祈りも学びも「無限」だからです、そして勇気を与えてくれる。
祈り学びを継続しますと、へこたれるという気持ちが起きない、挫折感が生じないのです。
人生で落ち込むのはナゼでしょう、「気持ちから」です、「気が萎えるから」です。ナゼ落ち込むのでしょう、「行き詰まり感、挫折感を感じる」からです。
本来私たちの「人生に遮る物はない」のです。
ではナゼ行き詰まり感や、挫折感を感じるのでしょうか。
お釈迦様は「法を灯火とせよ(法灯明)、自らを灯火とせよ(自灯明)」と「断言」しました。
人は信頼しても頼られても「当てにしてはならない」のです。
法(学び)を自分の歩む道の灯火として歩め、そこを目指し自らの足で歩め、とお釈迦様は導き諭されました。
私たちが悩めばどうしても外にその原因を求めます。「あの人が、この人が、世の中の景気が」といった具合にです。
人はどうすることも出来ません、しかし自分は「どうすることも可能である」ことを知るべきです。
「法を学び、自らの足で」といっているのです。
私たちは凡人です、凡人は「困って学ぶ」のです。
このことを「知りましょう」。困ったら学べばいいのです。それを私は知ったのです。
そして落ち込まなくなった。
天が私に試練を与えるのは「気づけと啓示」してくれているのです。「足らずを学べと」示してくれているのだと感じ取っているのです。
私の目の前にはいつも「目印である灯明が輝いている・道が示されている」のです。だから気持ちが萎えない、モチベーションがおちない、いつも目の前に遮る物はないのです。
大空を仰ぐように、山の上から下を眺めるように。
今夜は「にんげん学」小倉講座ご一緒に学びましょう。

世界平和をお祈りいたしましょう。ありがとう・心に華を咲かそう。        合掌