子供の頃

おはようございます。

昨日夕方心華寺へ帰ってきました。小倉を出て京都で下車、京都「にんげん学」講座にも出席いただいているIさん主催の会で講演、一(いち)という演題でお話させていただきました。
帰って土、日と一泊二日で毎月心華寺で開催されている本年初のM&Uスクールの皆さんへ挨拶、スクールの皆さんも午後8時頃に笑顔で帰られました。本年も元気でスクールに通ってください。
「にんげん学」小倉講座へは新しい方が二名参加くださり、愛宕寺の初権現も沢山の方にお参りいただき年の初め無事スタートした感です。
先日実家に帰り実家の信者さんの前でも話をさせていただきましたが今日私があるのは遠い子供時代、実家が最上三十三観音札所、第八番霊場ですので、よく巡礼者がありました。
田舎では巡礼の方をお札打ちさんと親しみを持って表現します。お札打ちさんがお参りに来ると近所の子供たちもやって来て、巡礼者が本堂に上がった後に履き物をそろえることを子供たちがするのです。
お札打ちさんが帰るとき一列に子供たちが並ぶのです、そうしますとお札打ちさんが子供たちに菓子をくれるのです、そのために履き物をそろえ、行儀良く並んだりするのです。時には寺の前を掃除したりも。
人のお手伝いをして行儀良くすれば「駄賃がもらえることを知った、そして喜んでくれることを知った」のです。中学に上がる前くらい間でしていたように記憶しています。
人の手伝いをして行儀良くすれば「駄賃」、思い起こしてみればおやつもなかった時代、素直な子供心、多い少ないはあったものの子供には奉仕などという気持ちはさらさら無くただ「もらえるから」という気持ち、しかし今日60を過ぎても素直に手伝いが出来る素地のようなものを作ってくれたような気がしています。
少ないから止めよう、多いからやろうなどといった気持ちは全然ありませんでした、少なければ次はもっと一生懸命に手伝おう、多くもらったときはもっとしっかりやろうという素直な気持ちであったように思っています。
そしてお札打ちさんがくれない前に手を出さなかったようにも記憶しています、子供ながら年上の子供が行儀の悪いことはしないように教えていたのかも知れません、又子供心にも「乞う」ことを恥じる心があったようにも思えます。
子供心にも何かやったから当然もらえるという「乞う」ことを潔しとしない心、大人になってこそ大事ではないでしょうか。
今日多くの方とご縁をいただいたのも、子供の頃のお札打ちさんからお菓子をもらったお陰だとも思ってもいます。精一杯やって物を欲しがらず行儀良く、これからも大事なことだと、今の時代だからこそ大事だとも。
新年一月もあと四日、精一杯為すことを成し潔く歩んでまいりましょう、今朝もストーブの赤い色が暖かく見守ってくれています。

世界平和をお祈りいたしましょう。
Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。    合掌