大人ぶらず

おはようございます。

今朝の下関は雨です、先日の高波は人ごととは思えない出来事です、愛宕寺の目の前は海、関門海峡、心からお見舞い申し上げます。
楽に生きたいとは誰しも考えます、私などはその典型。物事の道理に気づかなかった頃は学ぶことを毛嫌いしていました。
学ぶなどということは不自由でちっとも面白くない、心と体の自由を奪われ、窮屈な思いだけで逃れたいと、もがく現実。
道理に気づかないことは恐ろしいことで「我ばかりが強くなる」。そのことさえ気づかない。「思い通りにすれば成る」という「勝手な思いこみ」、思いこみでやっては見るものの「道理がないのだからできるはずがないことにも気づかず」に、できないから「気が散り目と心が又他に移る」ということの繰り返し。
日と時間だけが虚しく過ぎ去り周囲を見ればどんどんと成長している現実、年と学年だけは同じようにとる。置き去りにされるという「焦燥感と孤独感」、そしてまた「自分の世界、殻に閉じこもる」という現実。
しかし「何とかしたいと悩むことは悪いことではない」のです。「思いを続けていると出会いがある」のです。
その出会いがあり、そして「道理のあることを知ったのです」。
「真の自由を得たいと考えたら不自由を」です。不自由とは「不自由のための不自由ではなく」、「道理に則した不自由」です。
道理という「型にはめる」ことの大事を知ったのです。そして今日は自由に生きています。何ごとにも「法則」が在ることを知った。
どんな世界にも「道理がある」。それぞれの「道を達成する理」です。
私たちは両親を縁として「可能性一杯の人間として誕生しました」、そう、可能性一杯です。生まれたときは可能性はあるが「何も得ていない」。
生まれたときは何もできない、何も得ていない。成長に従って「体験し、経験し身につけて」きたのです。
物心ついて「見て、触れて、思って」事を行おう、やりたいという憧れの「自我(意志)の目覚め」。
私たちは大人です。子供ではありません、しかし子供のようなものだとも云えます。子供のようだと考えることも必要だということです。
何か「心に期するもの」を持っているならなおさら「子供心を失ってはならない」です。なぜでしょう、それは「気づいたから」です。何に気づいたのでしょう「道理の存在」です。
ですから「大人ぶらない」ことが肝心。
自分に正直とは常々言っています。皆さんは自分に正直に生きておりますか?どうでしょう。「思いを達成したいか否かを問うているのです」。
外面を気にして彷徨う人生とするか。それとも敢然と自分と向き合い対峙して「道理の型にはめ込み」可能性にチャレンジしていきますか、ということです。
道理に沿えば「やりにくい」、道理に沿わなくとも「やりにくい」のが人生です。
いずれにしても私たちは可能性はあっても道理を身につけて生まれてきてはいないのです。
この事実は年令を重ねても変わりません。変わらないから「学びを生涯とした者に栄冠はある」のです。
大人ぶって口先だけで実力の伴わない人生として過ごすか、それとも「教わることを恥とせず」に謙虚でありながら明解に大胆に人生を歩んでいくかであります。
どちらの人間性に人は好感を持つでありましょう、それは大人ぶらず教わる人間性に目覚めた人に好感を持つです。
常に未来を見つめ学ぶことを忘れず道理の型にはめ、楽しい人生を描いているからこそ、現実の人生を疎かにしなくなるのです。「心ここにあらず」というような人生を送らない。
なぜならば道理を歩むという明解な指針に沿って歩んでいるからであり、何か良いこと無いかなぁ〜などと何の根拠もない世界に心を惑わされないからです。
今夜は「にんげん学」小倉講座、「こころ」をご一緒に学びましょう。そして充実した人生を確立しましょう。会場でお待ちしております。

世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。               合掌