学びは実践

おはようございます。

今朝は愛宕寺、6月の最終週、一ヶ月の仕上げをしっかりと確実にしましょう。明日は愛宕寺の「月例幸福護摩祈願祭」午前10時からです是非お参りください。
26日は「にんげん学」小倉講座、こちらへのご出席もお待ちいたしております。
「学習することは実践することだという話し」。
私は毎日祈りを捧げ学習します。それは日々仏道を歩み実践のため。
道を歩むのは目標を確かにしているからです、行ってみなければ分からないなどという不確かな道は歩みません。
読経をして「安心するためではありません」、学び学習も同じ「実践するため」です。
知ることが学びだと勘違いしておられる方もあるようにも見うけます。
実践無き人は「注意されると反感を持ち反発してしまう」、反発すると「一層実践が難しくなる、我の正当性を主張」する「悪循環を起こす」ようになり、要注意です。
実践をしない人は「考えに意固地になる」のです。
学びは言葉を換えれば「目標が確か」で、故に「教えられることに気づく」、祈りも同じで日々の読経は「為すべき事を気づかされる」のです。
それは実践しているから「教えられている、気づかされている」という感謝が常に生じるのです。
感謝する人は表情が輝き、目が澄んでいきますので、好感を以て人様に受け入れられるようになっていくのです。人を信じるという透明感です。
「習熟進化しようとの強い意識」、「実践しようとの強い意識」、「結果を出そうとする強い意識」がありませんと、この「教えられる、気づかされる」という感謝も喜びも感動も生まれません。
人間は進化していく可能性、退化していく可能性も共にあり、ですから強い意識を持ち祈り学べば「気づかされること、教えられることを多くする」のです。
ところが「教えられる、気づかされるという低姿勢、謙虚に学ぶ姿勢が足りませんと」いくら本を読んだり、人に教えを乞うても心に入らず気づくことも、教えられることも無く退化してしまうのです。
私たちは物事を多く知っていますので現実に結果を出さずとも「言い訳、反発だけは出来ます」。こうなりますとどうしようもなくなります。
豊かになっていくことは多くの指示を受けるということであり、それは「共鳴」です。「自分が共鳴をして」教えに祈りに実践の行動が出来て、「真実共鳴する」ということです。
聞いて終わり、祈って終わりでは何の展開もなく、残るのは「学んでも同じ、祈っても同じ」という「人を責める答えしか残らなくなる」ことに気づかなければいけません。
実践し修正する、そして又学び祈る、これを繰り返してこそ確かな結果があるのです。
教えられている、気づかされていることをお忘れにならないよう、知っている、前も聞いたという感謝がないようでは退化しかないのです。また慢心の表れだということです。
稔れば實ほど頭を垂れる稲穂かな。知れば知るほど謙虚になり、出来ているとは考えず「実践しようとの思いを強くすべき」です。人生の道はこれで良いという歩をするのではないのです。
欲は足ることを知ることが大事です、しかし人生の歩みは何時までも続くのですから、年令を重ねるほど経験を重ねるほど謙虚になり慢心することを戒めるべきなのです。
感謝、謙虚が大事で慢心が何故いけないのかといいますと、慢心してしまう人は「従うことを善しとしません」から、その立場で最高位に立てば結局は誰も従う者もいなくなり、結果築き上げた物を失ってしまうこととなるからです。
身から出た錆となるのです。
逆に生涯学び、祈りは実践だと戒めている人は道に従い、人に従いますから「後に従う人が育ち、会社も継続されていく」こととなるのです。

世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。               合掌