信じて期待しない

おはようございます。

富士登山のため一昨日宿泊された皆さんと朝の護摩祈願をご一緒にお祈りし元気に昨日の朝8時半前に笑顔で出発するのを見送りました。
午後3時半過ぎにこれから五合目を出発しますと誠澄からの元気な電話、今頃は頂上で感動の面持ちでご来光を拝み万歳をしている時ではないかと思います。
今朝のお護摩は皆さんの安泰と共に下山の無事と皆様の無事の帰宅を今回行けなかったYさんと一緒に祈ります。
参加者の中には17年前中学一年生の時に最初に登って今回で五回目という若者もいます、今は結婚をし子供が授かり無事安産を祈る登山、嬉しい限り。子供が成長したときは一緒に登りたいと、これまた泣けてくるほど嬉しい言葉。
子供の時には親に言われたから登ったに違いありません、しかし今では自分から率先して登る大人に、この素直な彼の将来の素晴らしい人生を送るであろう姿が見えてきます。
今年も小学校6年生の女子と中学校1年生の男子が登っています、きっと彼らの心にも大きな気づきがあることでしょう。
「信じて期待しないという話し」。
私は人を「信頼しております、しかし期待はしません」、変な表現ですが、期待とは何時いつまで、これこれをやって欲しい、なって欲しいというこちらの欲であると考えるからです。期待は裏切られることも多いのです。
もちろん私にも何時までにこれこれをという気持ちが無いわけではありません、人として当然自分の目標はあるわけですから教えたことであれ、仕事であれ早く身につけて欲しいとは願ってはいます。
こうも考えるのです。教わることに全ての人が主体性を持って教わるのかといえば?でしょう。ですから私は人に話すときには「いつか必ず気づいてくれる」という「信頼の本に話す」のです。そして「必ず気づいてくれる」という信頼です。
私は私のために役立ってくれる人のために話をしたり、イベントをするのではありません、いつかは必ず参加した人が「自分の物としてくれるであろうと信じて話す」のです。
誰でも主体性を望み、率先して事を行ってくれることを願っているはずです、この主体性や率先することは「自分が必要と感じなければ生じない気持ち」なのです。
私はこの「必要となるときが来ることを信じ話す」のです。
人を信じるということは何かを相手から貰ったから「信じる」ということではありません。これは「打算、計算」です。
打算でも計算でも考えて行うことに変わりはありません、しかしこのような考えでは自分の心の平安はなく、人を穏やかに見ることもなく、人を疑いを持って見るという人間性を自ら作ることになるのです。
自分の言うこと話すことは信じるべきことで、だが相手は結果を出さなければ信じないというのでは独裁者です。このようであってはこの世は闇であり、人生の平安さえも作ることは出来ないでありましょう。
率先して仕事が必要なのだと感じて主体性を持って行う人が多くなることを信じて「人作り」の一助になればと「人信じる」ことを率先したいと行動しているのです。

世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。               合掌