涵養

おはようございます。

お盆休みを故郷で過ごされてお帰りになる方も今日は多いのではないでしょうか、楽しく過ごされお疲れでしょうが家まで気を抜かずにお帰り下さい。
昨日は送り火をなされご先祖様をお見送りされたことでしょう。精霊壇を設えてご先祖様をお迎えする、素晴らしい風習です。
精霊壇を作るということは大切なご先祖様をお迎えするために新しく部屋をお作りしてお迎えするという気持ちを表したものです。
13日から16日まで精一杯の心づくしをしておもてなしをする、「言葉を発しないからこそ誠意を尽くすことが大切だよ」、という先人の知恵、この「風習」を大切にすることによって「心を涵養することが教育の基本」です。
何ごとも風が生命に芽吹きを与えるのです。
「涵養の話し」。
涵養とは無理、強要をしないで「自然にしみこませる」という意味です。そうすることで「人を思いやる人間性(人間味)を養う」のです。
ですからいかに「風習・習慣」が大事かということにもなります。風習・習慣を古くさいと取ってしまい、先人の知恵を捨て去ってしまった結果が昨今の社会の荒廃に繋がっているのではないかとも考えております。
昨今の人心の荒廃は常識では考えられません、なぜこのような事態が生じているのでしょうか、考えられる原因の一つが「個人という考えの過ち」があるのではと思うのです。
社会は「共同社会」、「共存社会」、「共に歩むのが社会」です。
このことを忘れてしまっているような教育現場、社会の風潮、風習。
全てが「個人の責任」という「誤った風潮」。
ここからは「自己破壊しか」生まれてきません。「行き詰まりしか」見えてきません。
ですから「あの子が」という言葉に凝縮されているように普通の子と思われている人間が驚くような事件を引き起こしている。
今日は「だれそれの命日だよ」だから「みんなで手を合わせようね」、今日から「お盆だからね」ご先祖様をお迎えする用意を「みんなでしような」、今日は「家の大掃除だよ」みんなで「力を合わせてやろう」等々、
「共にある喜び」「共にする喜び」「共に苦しむ」ことを家族、社会の中で年令の違った者同士が「力を合わせて行動する喜び、苦しみ」から「共同の喜び」「共存の喜び」「苦を分かち合う」ことで知らず知らず涵養され、「社会貢献する人間性が醸し出されていく」こととなるのです。
誰でもが社会参加ができることを無意識の中で涵養され、自分の「存在感が実感できていく」。
幼少の時期から常に個人の責任を植え付けられ強迫観念に苛まれる、このような教育は教育ではありません。
才能を伸ばす、言葉では素晴らしいことを言ってはいますが、その言葉には「共に」という世界はないように感じるのは私一人ではないのでは、
全て個人の責任と感じさせる教育は人間性を喪失させるどこかの国の「洗脳教育」に似ています。
幼児の時から自分のことで汲々とさせてしまう教育からは人のために働く、人のために生きるなどという思いやりは育たないのが道理です。
これは社会的損失、国の弱体化を国自ら行っているようなものです。
季節毎の慣習、習慣を大切にしてご家族の中で「みんなで行う」という良い風習を作って行くことで大切なお子様の人間性が涵養されることを知ってください。
どうぞ常々お話ししておりますように、機会を捉えてご家族でお参りください、そしてみんなで行うことの喜びを育ててあげてください。そうすることで個人の様々な能力も磨きがかかり、社会のためになる人間となっていくのです。
みんなで歩むということはスピードダウンするかも知れませんが、確かな進化のあることを知りましょう。
家庭でも会社でも協調が無く不安と悩みを抱えていれば前進は無いのです。安心が在ってこそ、そして皆が協力協調することこそが進化するのです。
このような言葉もあるではないですか「急がば回れ」。良い風習が無くなったことの原因の一つが「効率ばかりを追う教育」ではないでしょうか。
手を合わせることや慣習事が無駄に思えるような社会となっては人間性が失われるのは当然なのかも知れません。
痛みの分かる、感謝を感じることができる、共に喜ぶことができる、このような人間性を持っていなければ仕事での発想などはできるはずもないのではないでしょうか。
会社の雰囲気が何故大事かもおわかりになったのではないでしょうか、風潮、風習が人を作っていくのです。
どうぞ寺も心の涵養の場、「にんげん学」も涵養の場、率先して社会の良い風潮を作るよう共に致しましょう。

世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。               合掌