祈りは我を滅する

おはようございます。

愛宕寺「月例幸福護摩祈願祭」お参りありがとうございました。毎月24日です、来月もご一緒にお祈りをいたしましょう。
昨日は嬉しいことがありました、皆さんとご一緒の祈りも当然嬉しいことですが、信者さんの中に結婚60年という方があり、感謝の意味を込めて赤飯を皆さんのお供養に下されたのです、嬉しいことです、感謝を行動で示すことの出来る方だからこそ60年の長きを苦労と喜びを共に出来たのでしょう、見習わなければなりません。
いつも書くことですが、祈りは意識していなくとも多くの人のためになる、このことが嬉しいことです。
「祈りは我を滅してくれる」。
毎日の祈りは少なくとも一時間を超える時間を要します。日々現実の中で様々な事柄が生じ、心を騒がすこともあり、煩悩がかき立てられることも、悔しさや悲しみもあります。
しかし祈っておりますとその現実がいかに愚かな思いであったことか次第次第にわかり、波だっていた心が不思議と穏やかになるのです。
争いや行き違いは皆我を張っていたことに気づくのです。人様と出会っているのは争うためではなく和することだ、ということに一層目覚めるのです。
後悔をしなくなり改めて生きる勇気と希望になり、心を開いて相手を受け入れられる自分ができあがっていくのです。それはそれは嬉しい気持ちとなるのです、心が晴れやかとなり開放感が心を占め自由な気持ちとなるのです。
対応が良い悪いではなく、「やり直そう」と自分がどう在りたいかがはっきりとして、行きがかりでの争いがいかに愚かで無駄なことであるかが心の底から実感するのです。
祈りはこのように「我を滅してくれる」のです。
例えて言いますと新しいきれいな着物を着ていれば当然きれいなことは当たり前のことですが、着れば汚れるのがこれまた当然です、時に洗濯をします。
汚れたまま着ていれば周囲の人には不潔感、不快感を与えるのは当然ですが、過去にとらわれて行動すれば同じようなこととなります。常に洗濯をしてこざっぱりとしていますと周囲の人はどのようにその人柄を見るでしょうか、
そう清潔感を以て見るのです。例え古くとも常に清潔にこざっぱりとしておればその人柄を清潔感を以て好感を持つのです。
このことと同じように日々の祈りは「心の洗濯でもある」のです。我の汚れを落としてくれる、そして過去にこだわらず自身がさっぱりとしたさわやかな気持ちで人様と接することが出来るのです。
過去の我にこだわり新しい人と出会ってもそこからは何も得られないどころか逆に悪い印象を与えることとなるのです。
祈りは常に真新しい心になれて人様に清潔感と好感を与えることとなるのです。
今日から一泊二日で「にんげん学」小倉講座有志の皆さんと熊本地方に修学旅行、楽しい旅をして見聞を広めたいと願っております。旅の報告は又明日、お楽しみに。

世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。               合掌