自誓

おはようございます。

今日は24日ですので愛宕寺の「月例・幸福・開運護摩祈願祭」です。午前10時からですので是非お参り下さい。
「自誓(じせい)」。
自誓とは読んで字の如く、「自分で自分に誓うこと」です。どのような情況にあっても「自分を見失わない」、「うろたえない」ということです。
自分を見失わない、ということは「人様に理解を求める」、「人様に知ってもらう」ということではありません。
多くの人が「自分を理解、知ってもらえなければ自分の人生を歩めない如く考えているように思えます」。
ご相談にも「自分を理解してくれない」という悩みを訴える方が多くあります。
ではあなたは「人様を理解しておりますか」と尋ねますと、「?」です。
ではなぜそのように考えるようになるのでしょうか。会社や周囲の人の「指示や命令で仕事をしていることを」、相手を理解している、相手に忠実に仕えているというように考えるのです。
自分が「こんなにも尽くしてるのに」という気持ちから、何か不都合なことや、注意されたことや、自分で嫌な仕事だと思っていることに直面しますと、途端に「自分は懸命に仕事をしているのに、理解してくれない」と、なるのです。
このように考える人は皆さん「いい人」なのです。
間違ったこともしていないのです。だからこそ「相手にも自分の主観で思ったことを望んでしまい」、「何で?」という気持ちが起きてしまうのです。
仕事を「個人の情(好き嫌い、主観)で行ってはいけない」のです。
せっかく能力がありながら、真面目に働きながら「不満としてしまう」という「気持ちとしてはいけない」のです。
そこで大事なのは「どのように生きるか」を「確かにする」ことが大事です。対人関係を行うとき「どのような姿勢、接し方」をしていくのかを「確かにする」必要性があるのです。それが「自誓」なのです。
評価されたいのであれば、先ず「人を評価する」、情を欲しいのであれば、先ず「人に情をかける」、優しくと願っているのであれば、先ず「人に優しく」であり、論理的に在りたいのであれば、先ず「論理的に接する」。
何事も先ず「自らの在り方が先」であるのです。
そしてそれらのことが通じる通じないで悩まないのが「自誓」なのです。私たちは「主観で生きている」のです。主観は棄てられません、であるならその主観を「悩まない、人と争わない主観とすべき」なのです。楽しく人間関係を結ぶ主観とすべきなのです、それが「自誓を持つ」ことなのです。
祈りましょう、自分のために、そして大切な方の幸せのために、祈りは心を自由にし、そして人様の優しさが見えてくるのです。

世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。               合掌