施餓鬼

おはようございます。

今日は愛宕寺「盆・先祖、水子、物故者・施餓鬼法要」です。私たちは「餓鬼道に堕ちないように」暮らさなければいけません。
分相応に欲しがるのはいいことですが、その加減がなかなかに難しいのです。「過ぎたるは及ばざるがごとし」で、欲が勝ってしまいますと「身を滅ぼし、恨み辛みを言うようになり、人間として寂しい人生を送る」ようになるのです。
「施餓鬼」。
「せがき」と上の字は読みます。「餓鬼に施す」ことです。いわれは、お釈迦様の弟子である「目連尊者」が神通力で亡くなった母がさぞや素晴らしい極楽世界に行っているだろう透視をしましたところ、以外や意外「餓鬼道に堕ちていた」。その姿を見て嘆き悲しんだ目連尊者はお釈迦様にご相談なされたのです。そこで始まったのが「施餓鬼会」です。
餓鬼道世界は「貪る者が堕ちる世界」。我欲だけを満足させたい者の堕ちる世界。目連尊者は母親が堕ちていた「餓鬼道世界」の食事風景を目にしました。食物を口に入れようとすると「食物が炎となり燃えてしまい食べられない」。ですからいつも飢えにさいなまれている。現世にいるとき何一つ感謝せず満足しない気持ちを持っていた、その報いです。
欲深い人間は、その欲で人様も又欲深いと考える愚かな人間となるのです。善人は人も善人と思いますから、ラッキーな出会いがあるのです。欲深い人間はやはりその逆と為るのは理の当然です。
餓鬼道世界で食事の時に使う箸は、一メートル以上もある長い箸。その「箸を使わないと食物は燃えてしまうのです」。そんな長い箸ではとても口に食べ物を入れることは出来ません、ですから、手で掴んで食べようとします、そうしますと、燃えてしまうのです、どうすることもできません。
餓鬼道に堕ちた人は自分の満足だけを考える者ですから、「真実の道具の生かし方、知識の用い方、知恵の使い用を知りません」。道具、知識、知恵は「人の為に用いてこそ力となる」のです。
自分のために用いようとすれば「身も心も破る刃物となる」のです。
長い箸を使って食べる方法は「お互いが食べさせ合うこと」です。それでこそ道具や知識、知恵は生かされるのです、そして感謝の世界が生まれ、お互いがお互いの必要性を実感できるのです。しかし餓鬼道に堕ちるような人は「人の意見を聞かず、人の為も思わず」で、だから報いが餓鬼道となってしまったのです。
そこでお釈迦様は目連尊者に「施餓鬼法」を教えたのです。お釈迦様は「この世の母」です。母親は子供の難儀を見たら「サポ−ト」するのです。言わず語らず自然体で行うのが親です。
餓鬼に施すことを自然に行えば「いつしか己の愚かさに気づかされる」のです。これ見よがしに「正論を言われてサポ−ト」されても誰もいうことを聞きません。
私たちのご先祖様が餓鬼道に堕ちているというのではなく、私たちは自分のことで精一杯というときもあったのです。そのとき人を傷つけるということもあったのではないでしょうか、一度だけのことかもしれませんが、その一度で、世の中を恨んだり、拗ねたりしてしまう人もあるかも知れません。
そこで「施餓鬼」なのです。因果応報が摂理、道理です。今を「お互いが支え合う、食べさせ合う」在り方、生き方をすることを実は「施餓鬼会」でお釈迦様が一番教えたかったことなのです。
今は、素晴らしい未来のためにあるのです。その今を「お互いが支え合う」在り方を考え実践することを、「教えと形で示した」のが「施餓鬼法要」なのです。是非今日はお参りください。心華寺は7日午前10時からです。
明晩は「にんげん学」東京講座、東京地区の皆さん会場でお待ち致しております。

世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。 合掌
 私たちは東日本大震災の復興を応援します。