外見

おはようございます。

着物考の二回目、比叡山を下り何も持たなかった時代、着る物には特別な思いがあった。この時はこれ、外に出るときにはあれといった具合に。そんな私が今は余り頓着しない、大人になったのか、はたまたボケたのか、いい加減になったのか、曖昧に生きることの楽なことになれきってしまったのか、あの恥じらいはどこに行ったのであろう?か。
だいたい坊主が洋服を着るなどというのはもってのほかと考えていた、頭も剃っていない坊主は坊主でないくらいに毛嫌いしていた(毛がないからではない)。中途半端な奴だと考えていた。また私は頭を剃ることが大好きなのである。理由は簡単、剃った後の清潔感。
私は人がどう見ているかを考えることが好きなのです。信者さんが最誠さんはいつもきれいに頭を剃っていますね〜とお山で修行当初に言われたことに味をしめたのかもです。ブタもおだてりゃ木に登る
私の生家は貧乏だったため服装は清潔感を第一にお袋はしていたようです、貧乏だから汚い、といわれることを由としなかったのだろう。誇りと志は高く持てとも言われ育てられたようにも思っている。恥を知れとも、生まれつき貧乏なのではなく、心を貧乏にしてしまったら永遠に貧乏になるぞとも。
服装にこだわるのは何もお金があるからではなく、清潔感とセンスであろう、お金があってもダサイ奴はダサイ、これもお袋が教えてくれた。それが長じて人の服装や着物を見る目となったのではないかとさえ思う、そして心を見る。
「外見」。
こう考えてみるとよほど私は外見にこだわっていたのに違いありません。それは坊主というヒエラルキーの世界が好きだったということもあります。位階、階級で衣の色が違う、これには憧れました。
ただし私が着ることに憧れていたのではなく、見ることを楽しんでいたということです。色とりどりの鮮やかな原色の衣は緑の木々、お山の中に花が咲き蝶が飛んでいるように映りそれはそれは美しいのです。人間が織りなすことのできる美しさはこれに勝る物はないという思いです。
小僧の頃私は自分で買った作務衣や着物を着た覚えがありません、お仕着せか、信者さんが贈ってくださったものです。着る物が大好きでしたのでそれはそれは大切に着ました。まるで宝物のように。
ですから私は小僧でありながら着る物にまったく不自由したことがない。御仏にお仕えしているとご褒美がいただけるのだと素直に感謝していました。
偉いお坊様や阿闍梨様は信者さんに奉納していただきますが、小僧である私はよくみんなに不思議がられていました。そのたびにお大師様のおっしゃられた「道心の中に衣食有り」のお言葉が蘇り、不思議でも何でもないのにと思ったものです。
外見をよくすることはとても大切ですが、外見のための外見ではよろしくありません、私は高僧の皆様方の素晴らしい衣を着ておられる姿に出会う度に、内面、人格の素晴らしさを見ていました。そのときこの人達に導かれることはとても幸せなことなのだと思っていました。衣を着るようになってからは位負けしないようにコツコツと精進しました。この世はゆっくりと進化していきます。そして皆さんの目に触れるとき一瞬に爆発するのです。だからこそ意識して着物に恥じない修行を行うのです。

世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。 合掌
 私たちは東日本大震災の復興を祈り応援します。