人様が

おはようございます。

今日はこれから一宮、明日は東京、土曜日に心華寺に戻ります。一宮に車を置いて東京に出ますので帰りは一宮によって車をピックアップして帰ってきます。
何時も思うことですが、それは皆様への感謝。人様のお力無くして私の存在はあり得ません。今日、明日と「にんげん学」講座で出かけるわけですが、孔子はどのような行動においても、行動を慎むこと、感謝は忘れてはいけないことを教えています。ですから何度も書きますが知ることは行動、感謝しなければいけません。感謝出来るようになれば、いわゆる礼を失することを少なくするのです。
礼儀の大切さはいつも書いていますが、自分と人様との存在を確かにしていなければ出来ないことです。己の行動をスムースに運ぶための最も大切なものは礼に適った行動だからです。礼儀がなければ誰も相手にはしてくれません。非礼、無礼な人間は目の前の人を軽んじ、価値観を認めず、己だけが正しいという意識です、それは礼儀とはいいません、服従させる態度です。そのことを知ってか知らずかは分かりませんが、相手の心や立場を尊重していないということです。
自分の誠意を受け止めて貰うにはやはり礼儀です。自身の持っている義をたしかにするためにも礼儀は要です。
「人様が弘めてくださる」。
隻手音声(せきしゆおんじよう)とは白隠禅師の語です。片手の音を聞けということです。両手を打ち合えば音は出ますが、片手だけでは音を発することはできません、その音を聞けというのですから、なかなかのものです。いろいろな解答があるのですが、私はこのようにこの語を捉えています「無限の音」。隻手というのは「自分の事、自分の音、能力」を指しているととっています。般若思想の「無自性(むじしよう)」「依他起性(えたきしよう)」でもあります。
どんなに良い音を出す隻手(自分)、片手であったとしても、それ自体で音を発することは不可能。相手があってこそ音を発することができます故に本来は無であり、言葉を換えれば無自性、「これだ」という固定された音はないということです。
故に相手が変われば「無限の音が発する」のです。これが本当だというのではなく、どの音も本当の音、真実の音であります。故に「無限の私が存在」するというわけです。無自性であるが故に無限の人に活かされる、活用されることとなるのです。そのためにも人様を尊重し出会うことが肝要です。いわゆる「打てば響く人間」。
論語、衞霊公第15、28条「子曰く、人は能(よ)く道を弘む。人を弘むるに非(あら)ず。」。意は「孔子言う、人間が道を弘め得るので、道が人を弘める訳ではない。」。
道は元来形がありません、抽象的なものです。この道を活用するのは人の力にあります。例えば、道は水のようなものであり、人は水を盛る器のようなものです。水には大小の別はありませんが、器の大小によってその大小、多少が決するのです。その反対は決してあり得ません。
私たちはいくら学んで知識を得たとしても、私を活かしてくださるのは周囲の人々であるのです。それを思えば「どのように在るべきか」は当然のこととして理解出来るはずです。
今日、明日に限らず、私は多くの皆さんのお力、お陰によって「場を与えられた」のです。人間の器が大きい、小さいということも同じ事が言えます。そのことに思いを寄せて感謝しつつ出かけます。一宮、東京の皆さん会場でお会いできますこと楽しみにしております。今日明日とどのような新たな自分に出会えるのか、どんな扉が開かれるのか楽しみです。今日も素晴らしい一日となりますよう。

世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。 合掌
 私たちは東日本大震災の復興を祈り応援します。
写真は下関から帰るときカワイイので。

小倉駅日豊線を走る特急、JR九州の電車はきれいです。人生は旅、はてさて皆さんはどこへ向かうのでしょうか?。