懺悔

おはようございます。

愛宕寺「月例・幸福開運護摩祈願祭」おまいりありがとうございます。護摩の炎は美しいですね、家族愛、友人愛、会社愛の炎だからです。新しい芽は真に滅してこそ芽吹くのです、過去に感謝し未来のあることを感謝し、今を大切に生きる。護摩の炎で滅すればこそ次の生への栄養となり永遠の繁栄が芽吹くのです。来月もお待ちしております、ご一緒に祈りましょう。
「禍福(かふく)はあざなえる縄(なわ)のごとし」、「人間万事塞翁(にんげんばんじさいおう)が馬」等、このようなことを「禍福倚伏(かふくいふく)」ともいいます。一つの事柄には一つの面だけではなく、いろいろな面が含まれている。ですから結果的には幸になるか不幸になるかは誰にもわからないーという言葉です。
昨日まで権力をほしいままにしていた人があっという間に奈落に落ちる、失脚してしまう、強い言葉を持つ人はこれまた言葉でつまずき己が身を危うくする。などということは日常でよくある話です。幸福には必ず不幸がくっついてくるのです、また不幸には幸福がくっついてくるのです。禍福、美醜、善悪、貴賤、優劣、強弱等は相対的な見方で生まれます。
だからこそ大地のような慈悲の心、精神で祈り感謝しますと、自然の摂理に従い歩みますので、一喜したとき喜びすぎず、一憂したとき落ち込みすぎない更なる感謝の心が沸き起こるようになるのです。感情が豊かであり情熱的人生でありながらも、過ぎたるは及ばざるがごとしとはならない。何故でしょう、摂理、法則のあることを明らかにしており、己の力などとは考えないからです。
「懺悔」。
「さんげ」と読みます。日々聖典を読誦しますが最初に必ず「懺悔文(さんげもん)」を読誦します。禍福、美醜、善悪、貴賤、優劣、強弱等は相対的な見方で生まれるものですから比較するものがなければこれらは存在しません。
相対的なものは、そのどちらかではなく、両方を含んでいます。見る人によってどちらかに偏(かたよ)って見えるのです。両者にどれほどの違いがあるのでしょうか?です。なぜなら表面的な価値観にとらわれない人、それを超えようとする人が、両極の世界の発想工夫が可能となり、世の人の多くの方のお役に立つ、楽しいことや喜びを与えられるようになるからです。美しくなりたいと思って入る人には美を、善く在りたいと考えている人にはその方法をといった具合にです。
そのため心身、精神を冷静沈着な状態として一日をスタートさせるため最初に「懺悔」するのです。いわゆる「お詫びをする」のです。「何も悪いことしていないのになんで懺悔するの」と思うかも知れませんが、私たちは意識するしないにかかわらず、知ると知らざるとにかかわらず、身と口と意によって罪を犯している、相手を傷つけている、という積極的な意識を持ち、天地自然に詫びるのです。そうすることで禍の種を少なくするのです。一歩引いた謙譲の心です。
それを行うことによって対立概念を少なくし、禍福、美醜、善悪、貴賤、優劣、強弱の両極の争いを少なくし、周囲の人や仕事先の方々との和合が生まれ、新たな世界が生み出され生成の循環が確かに繰り返されることで安泰が生まれるのです。生成がない限り芽吹き収穫などあり得ないのです。
一喜一憂のなかで両極に陥らずバランスのよい人生としましょう。懺悔できる己が確立しますと「対立概念ではない真の強者になる」のです。80才の三浦さんのように「登ろうときめたから登れたという自己確立」ができる強者です。あの人よりなどと対立で考え強くなろうとして強くなった人はおりません。今日も素晴らしい一日でありますよう。

世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。 合掌
 私たちは東日本大震災の復興を祈り応援します。
Oさんの差し入れ、ごちそうさまでした。

懺悔文
われら衆生無始(もろびとむかし)より、 貪(むさぼ)り瞋(いか)り痴(おろ)かにも 、 造(つく)れる罪業(つみ)の数知れず、 身(からだ)、語(ことば)と意(こころ)もて、 誤(あやま)ち犯せる所なり、 今無上尊(いまみほとけ)の前にして、 残らず一切懺悔(すべてさんげ)しつ、 乞い願わくは一切諸仏(ほとけたち)、 已に造れる罪障(つみ)は消滅(け)し、 自他衆生(われらもろびと)ことごとく、 清浄(きよ)き仏道(みち)にぞ精進(いそし)まん、 従今以往(これよりのち)は大慈悲の、 護念(まもり)の業(わざ)を仰(あお)がなん、 更に防遮(すくい)を垂れたまえ。  
静かに毎朝唱えてみてください。