見識

おはようございます。

川には支流が多くありますが、もともとは「一つの水源」から始まっています。木にも沢山の枝葉がありますが、もともとは「一本の幹」からできています。私たちにも悩みがさまざまありますが、もともとは「一つの心から」生じているのです。
こうした枝葉にあたる問題に惑わされて、大元の原因を見落とすのが「世の人の常」です。物事の本質にまっすぐ突き進むことができるのが、賢い人の「識見・見識」です。賢いとは「知識が多いということではありません」。
組織を治めるのでも「一つの根本」を知れば問題が起きたとしても解決できます。逆に「根本を知らなければ」問題を多くするということになります。対処療法では同じ過ちを繰り返すだけです。「何故問題が起きるのか、大元が何か」を確かにすることで迷いを少なくできるのです。
「見識」。
心の中にしっかりとした「見識」がありますと、枝葉に左右されず、紛らわしい欲にも惑わされることを少なくします。見識がない故に何の根拠もない希望的観測で物事を進め過ちを犯します。道理を体現する「心学」を養っていれば、低俗な意見に心を乱されることもないのです。言葉に対抗せず、惑わされないのです。
いつもいつも形は違うのですが、悩みばかりの人生を送っている人があります。これらの人は「一つの心」を知ろうとしないのです。悩みはいつも個々、別な問題だと誤った認識を持っているのです。「自分の心が過ちを作っている」ことを知るべきです。
詩経(しきよう)」に「先人の教えを手本にするのでもなく、常識で判断するのでもない。通俗的な言葉ばかり聞いて争う」とあります。
常日頃から聖賢の書を読み、この教えは道理に適っている、あの教えは道理に外れているというように、書物から自分なりに判断しながら学ぶ事が大切です。
そうしませんと口では「論語」「詩経」「書経」「何々の哲学書」等々にあるような立派なことを言っても、心構えをつくるためではなく、単なる物知りで会話だけの人は、外見だけ立派でも、見識とはならず、枝葉に惑わされている故の見栄としかならないのです。
知識だけでは見識とはできません、見識とは、「人生の体験を積み、事象に対する思慮・分別・判断し正しい結果を導き出すことができること」なのです。思慮・分別・判断の三つを根本とするために見識を養おうとする「心学」の重要性を確かにすべきです。
見識の無さが仕事先を見誤り、つき合う人を間違え、部下の指導を誤り根本を教えることも出来ないのです。根本を教えることができないために、社員や部下が我欲の満足でしか働かず、社会的使命感に目覚めることができないために更に枝葉的生き様と為す集団にしか育たないという恐ろしい現実となるのです。
論語、為政(いせい)第2、15条「子曰く、学びて思わざれば則(すなわ)ち罔(くら)し。思いて学ばざれば則ち殆(あやう)し。」。意は「どんな人から教えてもらったとしても、自分の頭で考えないとなにもならない。逆に自分の頭だけで考えて、人から教えてもらおうとしないと独りよがりになる危険がある」。
「一つの心に目覚め」何を目指すのか志をハッキリ確かにすれば枝葉、我欲に翻弄される人生とせず、根本を確立し、見識を確かにできます。今月のご愛読ありがとうございます。皆様のお陰で欠かさずに書くことができました、このことが一番の幸せです。一ヶ月のしめくくりの今日素晴らしい一日となりますよう。

世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。 合掌
 私たちは東日本大震災の復興を祈り応援します。
近くの御陵にある樹木「あすなろ」と思うのですが?、明日こそはという気持ちは大事ですね、実をつけて、明日こそはという気持ちが可愛かったので。


雨上がりの宇治河畔からの山並みです。