布施

おはようございます。

明日は心華寺「秋季・彼岸会法要」午前10時から行います。是非おまいりください、ご先祖様への供養はとても大切です。お中日は真東からお天道様が昇り、真西に沈みます。昼夜の長さが同じくらいだそうです。先日も書きましたが、苦楽は半々、苦楽を感じたとき、どのように対処するかでその後の人生が大きく左右されます。
「楽しみに溺(おぼ)れず、苦しみを体験して自暴自棄となってはいけません」。(自暴自棄:思うようにならないために自分を駄目なものと思い,将来を考えない行動をとること。「孟子」離婁(りろう)上に「自ら暴(そこな)う者は、ともに言(かた)ること有るべからず。自ら棄(す)つる者は、ともに為(な)すこと有るべからず」とあり、不満や失望などが原因で、やけになって自分の身を粗末に扱うことをいう)。
「事業や人生につまずき自棄になることのない人生を送ること」が大事です。苦楽の両極で人生を破滅に導いてはいけません。お彼岸は「六波羅蜜(ろくはらみつ)を修する一週間」でもあります。六波羅蜜の第一が「布施波羅蜜(ふせはらみつ)」、第一の布施波羅蜜を修していれば「楽に溺れず、失意に自棄にならず」、希望を失わないません。
苦楽は「表裏」。せっかく努力して得た楽、それに溺れ苦を招く、こんな愚はありません。又苦を感じたからこそ、努力して楽を得られたのですから、苦楽は人生にとって「妙薬」でもあるのです。
布施の「布」は、「心を普(あまね)くゆきわたらせること」、「施」は「人にものを恵みあたえること」「慈しみの心をもって、広く施しをすること」が布施です。
布施の原点になった話しが原始仏典「ジャータカ」にあります。「ジャータカ」は「お釈迦様の、前の世のものがたり」です。「前の世といわれても、ピンとこないかもしれませんが、物語(経典)に書かれていますので、少し長くなりますが紹介します。私はこの話しを信じています。だからこそ修行もします。どのような教えでも信じない人はいくら素晴らしい教えを聞いたとしても実践しませんから、救われません。自分を素晴らしい世界に導くこともできないでしょう。
お釈迦様は、2,500年ほど前、インドの北、ヒマラヤ山脈のそば、現在のネパールの当たりでお生まれになりました。
シャカ族という小さな部族の王子でありましたが、将来の王になる立場を捨て、城を抜けだし修行の旅にでました。36才の時に、菩提樹の木の下で、悟りを開き、ブッダ(目覚めた人)となりました。
弟子たちは、ブッダになったのは、お釈迦様が現在修行しただけではなく、きっと前の世でも善い行いを積み重ねてきたにちがいないと考えました。そこで善い行いとはどういうものかをお話の形にして説明したほうがわかりやすいと思ったのです。
古くからインドにある口から耳へと言い伝えられた伝説が「ジャータカ」と呼ばれる仏教説話集になりました。
574の話しの中に、お釈迦様は、この世に生まれるずっと以前のボーディサッタ(菩薩)として登場します。ボーディサッタ(菩薩)とは、のちに、いずれは、ブッダになるはずの人と言う意味です。そこに書かれてあるのが「ウサギと三匹の友だち」という話しです。ボーディサッタ(菩薩)は、あるとき人間に生まれたり、またあるときは動物にうまれたりして、やめることなく、たえず自分を戒め、努力を続けていきます。その話の中に布施の原点ともいえるお話があるのです。
「むかしむかしのことです。ボーディサッタ(菩薩)は、ウサギに生まれて、森の中に住んでおりました。ウサギには、三匹の友だちがいました。サルとヤマイヌとカワウソです。四匹の動物たちは、いつも仲良く助け合って暮らしていました(素晴らしいですね、違った動物たちが仲良く力を合わせている、私たちも見習いましょう)。いちばん賢いウサギは、ほかの三匹に尊い教えを説いて聞かせていたのです。
◎布施(その人が必要とする食べ物でも、物でも喜んであげること)をすること。
◎自分の行い(身体、ことば、こころ)には気をつけて、人を傷つけないように、慎まなければいけない。
◎精進する日(布施を積極的に行う日)を守ること。
ほかの三匹は、熱心にウサギの話しに聞き入りました。ある日の夜、ウサギは月の満ち欠けにより、明日が精進する日だということに気がつきました。明日は、野の草を食べにでかけようと思っていましたが、ふと、考え込んでしまいました。
「もし、おなかをすかした旅の修行者がきたら、どうしようか?自分は、その人に草をあげるわけにはいかないぞ。そればかりか私の家には、人間が食べるようなお米もゴマもないじゃないか。ウーンそうだ。もしそういう人が来たら、私は、その人に自分の肉をあげ、食べてもらおう」。
このウサギの優しい気持ちが、天上に住むインドラの神さまの心にとどきました。神さまは、ふと考えました。
「ウサギの思いは感心だが・・・・よし、それが本物かどうか試してみよう。」そこでインドラの神さまは、バラモン僧(お釈迦様が生まれる前からの宗教の僧)に変身し、カワウソ、ヤマイヌ、サルの家のそばに行きました。三匹からごちそうをどうぞと、いわれましたがすべて断りました。最後に、ウサギの家にいきました。ウサギはとても喜んでお坊さんを迎えました。
「今日は今までにないご馳走をいたします。どうぞたぎぎを集め、火をおこしてください。準備ができたら、私に知らせてください。私は、自分で火に飛びこみますから・・・・。私の身体が、ちょうど良い具合に焼けましたら取り出して、召し上がってください。それで元気になって修行をお続け下さい。」
インドラの神さまは、すぐに神通力でたきぎに火をおこし、ウサギに知らせました。ウサギは、火のそばにいくと、三度ていねいに自分の身体を振るいました。
自分の毛についているノミなど小さな虫が、焼け死んではかわいそうだからです。それからウサギは、自分の身をお坊さんにささげるために、喜んで、燃え盛る火に飛び込みました。ところが・・・。まっかな炎の中に入っても、ウサギの体の毛ひとすじも焼けないのです。それどころか、熱くもなく、かえって気持ちはよいのです。
ウサギは、お坊さんに向かって、「お坊さんがおこした火は、冷たいです。この火では、私の毛一本も焦(こ)がせません。これはどういうことでしょうか?」。お坊さんはいいました。
「ウサギよ、私は、旅の僧ではない、インドラの神だ、私は、お前の心を試しにきたのだ。」ウサギは、「インドラの神さま、もし神さまばかりではなく、全世界の人が私を試したとしても、私の心の中に、ほんのわずかでも施し(布施)を惜しむような気持ちを見つけることはできないでしょう。」と、きっぱりいいました。
神さまは、「かしこいウサギのボーディサッタ(菩薩)よ。お前の善い行いが、永遠に、世の人々の心にきざまれるように」といいました。そして山をしぼった汁で、月の表面にウサギの姿を塗りました。
それから、お別れだと言って、ウサギを元通りの森の巣の寝床に寝かし、天上に帰っていきました。
四匹の動物たちは、それからも、行いをつつしみ、施しを続け、なかよく暮らしていきました。
これが「ジャータカ」にある「ウサギの施し(布施)」という話しです。みなさんは、この話しをどのように感じますか?。この話しの主題はなんでしょうか?。
この話しはおとぎ話や伝説だけではありません。ご紹介したのは元の話しですが、伝える人の考え方によりさまざまに元の話しが変わって伝わっています。
多くは、ウサギが、お坊さんに差し上げる食べ物がないのでしかたなく、自分の身を捧げたという衝撃的ともいえる犠牲の話しになっています。この話しは「ともに分かち合う喜び」の話しだと私は受け止めています。
元の話しには、自己犠牲(じこぎせい)の悲壮感(ひそうかん)は、まったくありません。自分の命を犠牲にして、代償にして、自分が損をするというようなマイナスの思いが、少しも感じられないのです。
私は、この話しのポイントは、「施し=布施とは、喜んでさしあげる」ところにあると思います。
受ける人も喜んでもらうのです。施す人も受ける人も、ともに喜ぶことが布施の最大、唯一のありかたです。そこには、損をするという気持ちがありません。
もう一つ大事なことは布施をする物が、なにものにもとらわれない清浄なものということです。盗んだもの、不正に手に入れた物は布施になりません。それは物とはかぎらず、行いでも言葉でもよいのです。どうぞみなさん、ご自分でできる布施を行ってください。
布施の心があれば、苦楽の両極におぼれません。楽を得たことも皆さんお陰であり、苦を感じては何で私だけがと自己が犠牲となった悲壮感もなく、人の代わりを務めているという、共に分かち合う喜びの心となるのです。明日午前10時から法要です。お待ちしております。ご家族で布施の話しをしてみてはいかがでしょうか。

世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。
日々の徳目、勤勉・質素・社会と人のために一隅を照らす。  合掌
JR奈良線の車中、宇治川を眺めての夕焼け。

電車から降りて。