思い切る

おはようございます。

今日は愛宕寺「月例・幸福開運護摩祈願祭」午前10時からです。「道が示される読経」をご一緒しましょう。そして「困難や障害を焼き尽くしてくださる護摩供」、ご一緒に美しく輝く炎に手を合わせ祈りましょう。
私が幸福開運と名付け護摩を修している理由は何度も書いていますが、先ず今がラッキーだと思っている「幸」、幸せと感じてポストにベストを尽くしていると夢が得られる「福」を信じているからです。
信じて歩めば泣くときがあっても、苦しさを感じたとしても、必ず強い「愛が生まれ強い絆が結ばれる」のです。
先日も書きました、「私たちは過去にとらわれます」。未来を思いながら、過去にとらわれる。過去にとらわれるという現実は「道、道理、教えを信じていない」ということです。別の言い方をすれば「覚悟がない」、「いいとこ取りしか考えていない」「自分のことしか考えていない」「我欲の満足のために道理を使おうとしている」。だからいくら道理を知ったとしても「不安が生まれる」。
道理は「繁栄する」のが道理です。ところが「自分の手柄にしたい」という「けちな考えがある」から過去にとらわれる。「叱られたくない、ほめられたい、という最悪でちっぽけな欲で悩む」。
だからこそ「因縁を良い因縁に変える護摩を修すべき」です。良かったことも悪かったことも「焼き滅ぼす法」。現実に護摩を修することによって「思い切る」のが護摩法です。
失敗や、良い方向に進まない原因の一つは「思い込みによる」のです。この「思い込み」を「良い思い込みにするのが日々の聖典読誦」「思い切るのが護摩供」です。聖典は前向きな未来志向が説かれています。炎は善悪にかかわらず焼き尽くします。
理屈では無く、私たちは過去にとらわれる、だからこそ、その煩悩を滅却する、それを単純明快に信じ繰り返しができてこそ、天意となり、物事は通じて商売でも何でも繁盛するのです。真理は自分を通して用います、だからこそ自分を知っておく必要がある。
それが、言葉では信じていると言ったものの、行動が伴わないというのは、信じていないからであって、こようなことでは願いも通じるはずもない、叶うはずもないのです。
「二兎を追う者は一兎をも得ず」という言葉があります。迷いも同じです。「なる、ならない」「未来を思いながら過去を追う」のも二兎を追うことと同じ事です。「護摩の炎で全てを滅却し、思い切る」のです。これを繰り返し繰り返し行じていますと、「必ず決断力が増し、決定力となり、その人の魅力ともなり、オーラが出て、周りの人を惹きつけるような魅力となる」のです。
結果が上手くいった行かないなどという二元的なことに惑わされなくなれば、周りの人もあなたを、できる、できないなどといった、二元的な見方をせずに信頼という目であなたを見るようになるのです。
私は祈りから、このような生き様の道を示されたのです。なる、ならない、などで悩むような信力ではなく、又いくら知識を豊富にしても、生き様が教えに従えないような人間性では、教えという宝を持っていながら、道に不信を抱き、人にも己にも不信を抱くという不幸の道しか歩めなくなる愚行を犯すのです。
過去にとらわれるということは、良かったこと、悪かったこと、いずれにしてもよろしくないのです。善いことを夢見ながらならないのは、過去にとらわれているのです。護摩にて過去を焼き尽くしましょう。私はいつも素晴らしい夢が実現すると信じて歩んでいます。心の中に豊かな思いを持ち日々暮らせるのも、思い切ることを教えから学び、いつも未来を見て歩んで来たからだと信じています。今日は二元的な考えを捨てる一日としましょう。

世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。
日々の徳目、勤勉・質素・社会と人のために一隅を照らす。  合掌
愛媛・八幡浜、一生園さんの日本一美味しいミカンが愛宕寺にもご奉納くださるという嬉しいメールと写真が昨夜送られてきました。Oさん、ありがとうございます。