三毒の煩悩

おはようございます。

心華寺には鐘楼はありませんので大晦日に除夜の鐘を突きませんが、除夜祈願の護摩は修します。年末にはやはり一年の来し方をどなたでも振り返ることでしょう。除夜の鐘は「百八の煩悩を払うため」に突きます、煩悩を滅し新年をお迎えする、リフレッシュして新年をお迎えします。
年末、大晦日は年頭に立てた一年の目標がどうだったのかを振り返るまたとないチャンスでもあります。そう、くぎり、ケジメは大変大事です。自己を省みることは、「必ず幸せへの足がかりとなるからです」。
「煩悩は尽きることがありません」、何故かといいますと、目標を持って私たちは明日に向かって歩むからです。目標を確かにしていても、あれこれと悩み煩悩が湧き起こってきます。湧き起こってくる度に、「初心・目標を思い起こすことで意を強くしましょう」。意を強くするために「煩悩、悩みが湧き起こるのだと考えて下さい」。
煩悩の代表的なものに、「三毒煩悩(さんどくぼんのう)」があります。これは貪欲(とんよく・むさぼり)・瞋恚(しんい・いかり)・愚痴(ぐち・おろかさ)、の三つを毒にたとえたものです。簡単に言いますと、「私たちを煩(わずら)わせ、悩ませ、苦しめる良くない心のはたらき」のことです。それを煩悩と呼んでいます。
ところがこの時期、「試験に合格したい」「家族が健康で過ごせますように」といった悪いとは思えないようなことも実は煩悩に数えられることがあるのです。
自分が正しいと思う主義を主張するのは大切なことですが、それを押し通すことで思いもよらず他の誰かを隅に追いやってしまうこともあります。誰もが「人に負けるな」と教わってきたのにも関わらず、そこが難しいところです。
腹八分は医者いらずといいます。適量なら薬となる食事も、過食してしまっては毒になりかねないわけです。酒は百薬の長ともいいますが、命を奪う水、人を狂わせる水とも?。
良くない心のはたらきとは、おそらく「我欲・我執(欲・とらわれ)」にあるようです。「自分の都合」と言い換えることもできます。要は、何に因(よ)らず「ほどほど」が肝要です。
自然の欲求を煩悩にするもしないも、「心がけによるのでしょう」。
「人に求むるときはいかりとなり。ものに求むるときはむさぼりとなる」ことを知るべきです。
根本を知れば、枝葉末節で苦しんだり、悩んだりしなくなるはずです。私は随分前から朝食は「ジュース、ヨーグルト、コーヒー」だけです。毎朝ミニ断食。何故かといえば、心は祈り心学で健康に、身は食事で健康にという当たり前のことでバランスを保っています。
年末に沢山のリンゴのお供えをいただきます。中には私が「リンゴとニンジンのミックスジュース」を飲んでいるのを知ってお供えくださる方もおります。愛媛・八幡浜の一生園さんからはミカンを山のようにお供えいただきます。一生園のOさんは、お供えくださる時必ずといってよいほど「美味しくないかもしれませんが味見してください」と謙虚なお言葉を添えてくださいます。
Oさんから教えていただいたことがあります。木が弱った時は、不必要だと思われる余計な枝葉は払ってしまうのだそうです。他のミカン農家の方は、枝に実が稔りますので、木が弱っても伐ることをしないそうです。
枝葉を払うということは、木本体の負担を少なくするというわけです。とにかく根幹がしっかりしていれば、枝葉も茂って花も実もついて、後々の心配はいらないという話しです。
作り手であります皆様の剪定や除草作業は、人間にとっての余計な枝葉(我欲・我執)である煩悩を払うという修行ととても似ています。
枝を払うのは何のためか?それは中身を充実させるためです。美味しかったですよとOさんに話しをしますと、「いえ、土壌つくりがたまたまうまくいっただけです」という奥ゆかしいお言葉が返ってきます。
根は心、よけいな枝葉や雑草は煩悩のようなものだといえるのではないでしょうか。作り手の心が清ければ、生み出されるものもまた清いものだと思えるのです。Oさんからお供えいただいたミカンを口にしてこんなことを思いました。「こころをこめて」と言われる所以ではないでしょうか。
何か疲れた、思うとおりに運ばないとお考えのことがありましたら、一度その思いを払うことです。今日はお仕事のスタートの二日目、新年でもあります、初心に返ってご自身の根本、根っこを大切に考えてみてはいかがでしょう。そんな一年としましょう。

世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。
日々の徳目、勤勉・質素・社会と人のために一隅を照らす。  合掌