宿業

おはようございます。

冷たい朝です。風邪など引きませんように、暖かくして過ごして下さい。私の日課は、朝起きて洗面し、ブログを書きお勤め読経をする。日課として一日の予定を立てて過ごしています。何故決めてやるかと言いますと「不安だから」ということです。こんなことを書きますと、坊主らしからぬと言われてしまうかもしれません。
一日精一杯努力をしますが、失敗の方が多い、その時はやはり御仏の前で静かに反省し、一日の締めくくりをつけます。そのままにしておかない、御仏の前で読経、瞑想しますと私は心が穏やかに静かになるのです。最初からこうなったわけではありません。
私の心が善くて悪い事を起こさないのではありません、間違いを起こさないわけでもありません。問題が起きるのは、起こすのは「宿業」だという教えを信じています。(宿業・過去世で行なった行為。それが現世でよい,また悪い結果をもたらす原因)。
何を私が書きたいのかといいますと、私はこの教えから「失敗や、間違いはするもの、あるものだという覚悟をしている」ということです。
私が日々祈るのは「救われたいため」「気が楽になるためでもなく」、「救われがたい存在として自覚すること」にあります。
この教えの自覚がありますと、救われるといいますか、覚悟ができます。覚悟ができますと、責任を転嫁しない、人を責めないのです。不幸を伝染させないということです。
私が祈るのは、私が救われるためではなく、「皆さんの宿業の因縁を良縁に変えるため」です。「人びとの魂を救わんため」です。
私たちは健康の時は「死を問題にしません」、これは生命の危機感がないからです。しかし「死のほうでは、刻一刻と人間にしのびよっている」のです。死だけが「絶対という言葉を使えます」。
人間死ぬべき運命にあるという自覚を持つことは、「そのことで悲観的になったり」「厭世的になったりするためではない」のです。逆に「死」は「生」を確認させる。つまり「死」を念頭に置くことで、自分の「生」が「真」に「生」の名に値するか、どうかを問うのです。
また、罪の意識を持つことです。むろん、法律的な意味での罪だけではなく、外部に表れない「心の中で犯す罪です」。人間(私)は「心の中で様々な罪を犯します」。「この野郎!」と思ったり、「人の失敗を願ったり」という気持ちが往々にして起こってきます。
私はこの愚かさを知ったがために日々「懺悔」し一日を精一杯生きようとするのです。そして何事か問題が生じたとき、引きずらない、一日を確かに締めくくるために又御仏に手を合わせるのです。私たちはどうしようもない現実があります。だからこそ、宿業によってもたらされたのだと、諦観(ていかん)(本質をはっきりと見きわめるこ)し朝夕に祈るのです。祈ることで、よしと、空なる気持ちで一日のスタートを護摩を修し煩悩を滅却し歩み出すのです。
明晩は「にんげん学」一宮初講座「新・論語を読む」です。一年最初の講座です、皆さんのお元気なお顔を拝見したいと願っています。素晴らしい一日でありますよう。暖かくしてお過ごしください。

世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。
日々の徳目、勤勉・質素・社会と人のために一隅を照らす。  合掌