14日年越し

おはようございます。

今朝も宇治は冷たく気温0度、0度は初めてです。防寒対策をしっかりしましょう。今日は14日年越し明日15日は小正月。1月1日の大正月に対する呼名で、15日正月ともいいます。前夜を14日年越しといい,年越しの一つに数えています。
小正月で,正月行事は終わると考えるのが普通です。そして明日15日の朝はお粥を食べる習慣は全国に広くあります。小豆粥にしているところが多いですね、皆さんのお住まいの所はいかがでしょう、健康のため小豆粥にしたのでしょう。
今のように医学の発達していない時代、病に罹(かか)らないことが人生に於いては健康の第一条件だったのです。健康を損なっては夢も希望もあったものではないのです。健康があればこそです。今日でも病には気をつけなければいけないのは同じです。
病に身の病、心の病があります。何事も順調に行っているときは心身の健康など、どこ吹く風のように振る舞っていますが、何か思うように行かなくなりますと、途端に夜も寝られなくなるほど苦しむのが「心身の病」それが「病気・気の病」です。
昨日も書いていますが、何事も「諦(あきら)めが肝心」。諦めるということは何もしない、考えない、自暴自棄になるというのではなく、転んだときには「何で転んだんだろう」などと考えるのは止める、ということです。「転んだものは転んだものとして仕方がない」、次に転ばないようにしようと、「自分を恨まず、人を周りを恨まない」のが諦観(ていかん)。
小豆粥を食べるということは「病に罹るもの」ということを知り、少しでも病に罹ることを避けようと祈って習慣とした、また神々を畏(おそ)れ敬(うやま)うことが「健康であることができることを信じていた」のです。そうして「用心をした」「祈ることや、歳時記を行うことは用心することだった、気を引き締めることだった」のです。
自力では如何ともし難い現実があることを古人は素直に認め、それを体認していたのです。理屈で考えていたのではなく、行動して諦観したのです。頭の中に知識としていたくらいで行動とならなければ諦観とはならず、「何か思わしくないこと、不慮な事故などが身に降りかかった場合は、諦めの悪い、美しくない行動をとる」のです。そして「正しい対策も取れない」。
論語に「君子もとより窮(きゅう)す。小人窮(しょうじんきゅう)すればここに濫(みだ)る」(衞霊公(えいれいこう)第15-2)という言葉を遺している孔子は、どんな状況でも冷静にいられたのです。なぜでしょう?「君子でも誰でも困るとき窮するときはあることを知っていた」諦観していたのです。
苦境に陥ったときに慌てないためには、よいときも悪いときも変わらない、日ごろからいざというときに備えて怠りなく励むことが大切だと孔子は教えています。
先人はことあるごとに、心身の健康を願い、いろいろな行事をつくり、心の戒めとして、怠惰な生活に陥ることのないように、心して暮らしたのです。だからこそ、人様に接するとき、人様が順境の時、逆境いずれのときでも情愛豊に相変わらずに触れ合うことができたのです。
それは「賢(けん)をみては斉(ひと)しからんことを思い、不賢(ふけん)を見ては内(うち)に自ら省みる。」(論語、里仁(りじん)第4-17)ことを常としたのです。
人は常に自分を磨くことは難しいことです。どんなに意識していても、ひとりでは自分を甘やかしてしまいます。この章句は、そんなときに思い出してほしい条です。だからこそ先人は習慣行事にしたのです。
意は「素晴らしい人を見れば同じようになろうと思い。つまらない人を見れば自分を省みて反省する」という意味です。このように毎日を過ごしている人は、どんな状況であっても落ち着いて対処することができるのだと孔子は教えます。
なぜ歳時記や美しい習慣が残っているのだろうかと静かに考えることも人間性を豊にしますし、心身の健康がなければ先人の遺して下された習慣、慣習を豊に感謝して継承ができない事も知るべきでしょう。継承できるという事実は、実は「人間の器を大きくするものでもある」のです。そして集中力の鍛錬になっていることが又素晴らしいのです。今夜は「にんげん学」一宮初講座「新・論語を読む」です。楽しみに出かけます。
14日年越しを、新年半月の反省する日としてはいかがでしょうか?今日も何か良いことがありますように。

世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。
日々の徳目、勤勉・質素・社会と人のために一隅を照らす。  合掌