疑点を持たず

おはようごいざいます。

回復に勤めています、しかし、しゃべらないというのは以外ときつい、少しずつ良くなって身体は正直。そこで、むくっと頭をもたげるのが煩悩、欲。「般若湯への焦がれ」。これほど長い間「断般若湯」をしたのは記憶の彼方。欲が頭をもたげるということは生命力が未だ未だ衰えていないと一人ほくそ笑んでいます。断般若湯というより、般若湯をいただけなかった若い時以来かな?。
ご本尊様へのお供えの「お酒」は求めます、そのお下がりはいただかず大地に供養。他のお下がりと違い、お酒をいただいて堕落した同期の修行僧を大勢見ています。くわばら、くわばら。「酒は百薬の長、気狂い水とも」。どちらにするかは己次第。
一日を自分のことだけに使うのも久しぶり、高校以来、久しぶりに贅沢な時間。ご本尊様と皆さんにこのような時間をいただいたことに感謝。
自分の時間をいただいたお陰で比叡登山時に思いが蘇る。「競争しないで生きる、自分をいきる、授かった能力で生きる」の思い。「ただただ自分だけを見つめていた」原点を断般若湯をしたお陰で思い出す。
「本質にかえり、真に生きる」。「自分の心、内なる真実の心に嘘をつかず、定まっていれば決して外の世界に惑わされることはないと教えに有り」、感動。
19才でお山に登り「全てに懸命」。「分別せず」「できることはできる、できないことはできない、だから逃げない」「下手でも懸命に。苦手でも懸命に」。ただただひたすら「命じられたことを誠心誠意取り組む」。その先に何が待っていようと。「信」の一点。
自分に嘘をつかない、自分をだまして暮らさない日々、それがいつの日にか忘れ毒された。真に生きるという「易行道を忘れていた」。知らないうちに褒められたい、認められたい、背伸び病に冒された。
「己の心身を治めることが根本」であることを忘れ、外、人を治めようと馬鹿な考えになっていた、「治めるべき対象は先ず自分であり」、その根本を忘れた。
人を治めようとするから「身体を悪くする、家を会社を駄目にする」。そのようなことは道理にはない。
何故自分を治めることができていたか、教えの示す世界に「疑点を持たない」からだったと原点を思い出す。だからこそ真理、教えを楽しむ事ができた。疑えば楽しむことができない。我欲では苦しみのスパイラル、蟻地獄。疑点がないからいつも楽しく暮らせていた。
修行時代には思ったものです、人様の指示に素直に随うことは「同じエレベーターに乗ることだ、乗せてもらえるのだ」と、疑点を持たず、指示を素直に受けることは「下支えをしていることだ」と、いわゆる「土台・ベースなること」。指示命令される方は違っていったとしても下働きの「私はいつまでも変わらない」。皆さん指示命令してくださる、楽しい日々の生活。
御仏に仕えることを楽しみ、人に仕えさせていただくことを楽しみ、新たな指示を楽しんでいたにもかかわらず、いつしか般若湯に酔い、溺れることに冒された、それを楽しみと錯覚してしまった。外の世界に心を奪われ溺れ濫(みだ)れ、楽しみとした、そこで「心身が違うのではと病を与えてくれた」。ありがたいことです。
原点に戻ろう。「酒は飲めとは言わず、己が飲んでいることを失念していた」。濫れ溺れない、たしなむことの大事を、断般若湯し思い知りました。でも恋しい、潔悪い、私は馬鹿だね〜。
私は般若湯は大好き、般若湯を飲み交わしながら話すことも大好き、美味しい肴をいただくことも大好き、ワイワイと話すことも、歌を歌うことも大好き。それなら「大事にしいや〜と仏さんが言ってくれた」と感じました。
皆さん快気祝いを大般若盛りとはいきませんが、ほどほどにしたいと今からよだれを垂らしています。賢明な皆さんは愚かな私のようになりませんように。良い一日を〜。

世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。
日々の徳目、勤勉・質素・社会と人のために一隅を照らす。  合掌
昨日の夕日です。数日散歩をして夕日を撮っています。先人は日の出を拝み「東方世界・薬師瑠璃光如来」を感得したことが今更ながら感じています。お薬師さまには一日の無事を。
そして夕日を拝み「西方世界・阿弥陀如来」を感得されたのは一日の終焉を恐れ、しかし明日への再生を祈ったのです。今とはまったく違った「夜の闇の世界の訪れを前に」明日への命を祈ったに違いありません。
手術前に「リスクが多すぎる」とDr.に宣告され、そのとき阿弥陀如来の世界、功徳を心から祈りました。美しさには未来があります。