休む

おはようごいざいます。

今朝まではゆっくりさせていただき、明日からは以前の時間帯に戻ろうと思います。随分とゆっくりさせていただきました。
何と自分は覚悟ができていなかった、肚(はら)が据わっていなかったと自覚。「心ここに非ざれば死人に同じ」。人様に偉そうに話していた私が一番覚悟がなかった、まだまだ未熟、穴を掘ろう。
家に居れば「寺が心配」、寺に行けば「休まなければ」と「心がここに無い」、どっちつかず情けない。どっしりとしていない。私は「さまよっていた」。それだからこそ何も育てられなかった。
「一隅を照らす、ポストにベスト」という教えも戯論、身についていない。「病む時は病むがよかろう」の覚悟の無さを露呈。やはり「学びて時に習う。時習」を「しっかりせい」ということだった。人間の底、本質は「非日常の時に現れます」。身体・命は如何ともし難いことは重々承知のはず、69になっても体得できていない。
今日から研修にお出でいただく皆さんに、「人間は何度も何度も脱皮しなければいけない」ことをお伝えしたい。それでなければ自暴自棄になってしまいかねない。そのためには「確かな基軸を持つことの大事」をお伝えしなければ。
私は「教えの眼目」を忘れていたようです。学びは己の心を豊かに安心の世界に導くためでもあります。でなければ落ち着いて学びなどできなくなります。
大きな嵐がやってきて、一時的に理性を失ったり、惑乱したりしたとしても、落ち着いたならば「本質が甦(よみがえ)り、己の心の良心が回復される」のが教え、学びの眼目です。
「休み」という字の本意も忘れていた。休むというのは、通俗的には「何もしない」ということになりますが、「そういう意味ではない」。休という字は「イ篇」に「木」と書いている。「人が木の下に立っている」ということです。
「かんかん照らされて歩いている旅人などが、途中木の陰を見つけ、ほっと息をついている」わけです。それは「実に幸いであり、救われる、気がやすまる」。したがって、そういう「心も体もやすまる」というのが、この「休」だったのです。
「教え、学びは孤独な心を癒やし、ほっと一息つくもの、休まるもの」であることを見失っていた、動転していた。ようやく一週間を過ぎようとして落ち着きを取り戻しました。
この体験を元に皆さんに教えの尊さ、学びの素晴らしさをお伝えできればと思います。身の病に限らず、商売が上手くいかない、人生に行き詰まる等々、様々な病があります。時に心身が休まり安心して「甦ることのできる大本が教え学びであることを認識しましょう」。
今日も時習を楽しみましょう。休みを積極的に進めていきますと「遊」となります。楽しくなるのです。Dr.にリスクが高すぎると言われ、覚悟して手術に臨みました。その時、自分でも意外なことに去来した不安で心が苛まれ、今までにない孤独感に襲われました。狼狽えたまま西の世界に行かせず「もう少し修行せい」と言われたようです。
どんな状況に陥っても、これからは教え、学びに遊びたいと思っています。良い一日をお過ごしください。
研修生の皆さん、お気をつけて入山ください。研修を楽しんでくださることを願っています。

世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。
日々の徳目、勤勉・質素・社会と人のために一隅を照らす。  合掌
昨日も白鷺と青鷺に出会いました。