般若波羅蜜

おはようごいざいます。

桜の花にはなぜかひかれてしまう、華やかだからでしょうか?、最初はちらほらと咲き、その後にドンと咲くからでしょうか?。小さい花が肩を寄せ合って咲く姿に魅せられるのでしょうか?いろいろあるのでしょう?。
逆に小さく足下で静かに咲く花にも魅せられます、美しさはいろいろです。そして花を咲かせる前、その存在に気づかないことに愕然(がくぜん)とする私がいます。何と悲しいことか!。
誰にも知られない存在の代表が自分自身であるのに、一度知った存在を忘れてしまう、恩知らず。見守ろうと、大切にしようなどという気持ちが湧かないのは情がないと言われても仕方がありません。桜の木でさえこのような心になるのですから、人様に対したときはもっと非情なのかもしれないと反省します。
人によっては派手な桜より、寒いとき静かに咲く梅の花が好きだという方もあります。これも人好き好きですから何とも言えません。
しかし、とかく派手なことは己を惑わす要因であることは間違いありません。「自分がしっかりしていれば」ということは、余り当てにならないもので、このように言う人がしっかりしているかといえば、大いに疑ってかかるべきであろうことは、これまで、そのように言っている人の中で、しっかりしている人は見たことがないからです。
花見で酒に飲まれたり、喧嘩をしたりと、楽しむのではなく、乱れて、酒に飲まれるようでは美しい桜の花に申し訳ない、そして尋ねる、あなたは何故人を狂わすのか?。こんな人は花を愛でる資格はありません。
今日で春のお彼岸が明けます。六波羅蜜の第6「般若波羅蜜」の話を書きましょう。何でも始めがあれば終わりがある。命をいただいたのであれば、全うしなければいけません。ご先祖様からいただいた素晴らしい「徳」を汚さないために「般若波羅蜜」を確かにして、彼岸明けの今日はご先祖様に感謝を深くしましょう。
「般若」とは「仏の教えであります究極の目的、悟りの智慧という完全な徳」のことです。
そう、「徳」を完全にする。これまでの五つと同様に、完全というのは何も難しいことではありません。「物事をそのままに見る」ことが「般若波羅蜜」。物事をそのままに見られないから、「惑わされ、迷わされ徳を全うできない」のです。
私たちの徳(能力)、般若心経に説かれています「眼・耳・鼻・舌・身・意」の六根をそのままに働かせることで惑わされず、迷うことのない人生を送り彼岸に到ることができます。
外の世界、事象は自分の力では如何ともし難いものです。如何ともし難いものであるから、「ありのままに見る」ことです。我欲から見れば「好き嫌い、甘い辛い、上下、美醜」等々対立の世界で見てしまいます。
しかし、他と比較せずに見れば、「そのもしかない、ありのままを見ることができる」のです。「ありのままで見ることを智慧」といいます。その上で「布施から禅定波羅蜜」までを淡々と情熱を持ち楽しく行じ暮らすことが般若波羅蜜、般若の彼岸(生きがい在る充実の安楽世界)へ到るのです。
迷いの世界を作るのは自分の心。大切な心を曇らせないために、「ありのままに見る」ことです。ありのままに見ることができないのは「我で見るから(好き嫌い)」であります。我があれば「智慧とはならないのです」。
如何ともしがたい物を何とかしようとするのが「我」であり、愚行そのものであり、だから悩み苦しむしかないのです。
ありのままに見れば、自分勝手に何とかしようとはせず、そのものの存在を認めれば、相手の方からこちらの意に添うように近寄ってくるのです。それが般若、智慧を生きることです。
俗諺の「引けば押せ、推せば引け」です。せっかくの智慧の徳を我で発揮しないようではよろしくありません。我の一番の欠点は「欲」、何事も「知足を忘れる」ことが眼を曇らし、心を失わせる原因です。我欲で意地を張るようでは知恵者とは言えません。ありのままにみる般若波羅蜜の世界を歩みましょう。
明日は愛宕寺「月例・幸福開運護摩祈願祭」です。大願を成就するため「ありのままで見ることのできない煩悩を護摩の炎で焼き尽くしましょう」午前10時から厳修します。欲を大きく持てば持つほど、煩悩が見えます。それを焼き滅ぼせば「大願成就します」。お待ちしております。
今日は自分の感情をいれずに「ありのままに見る一日」としましょう。きっと新しい現実が目の前に現れます。

世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。
日々の徳目、勤勉・質素・社会と人のために一隅を照らす。  合掌
心華寺を出る前に先日つぼみだった木蓮、そして最寄りの駅に行く途中の住宅街の庭に咲いていた桜です。
自然は突然のように変わります、私がその存在を無視していた、忘れていただけなのです。花は静かに咲きます。私もそのように在りたい。