怒りの中から

おはようございます。

今日は日曜日です。ゆっくりお休みください。お寺は皆さんが休日だからこそ開けております。皆さんが祈りにお出でくださるからです。要するにお寺は休日はありません。
私の実家も寺ですから当然幼いときから休みということはありませんでした。母親も貧乏寺でしたので寺の手伝い、農作業と生きるために労働の日々。どこに遊びに行くということもない日々、しかし毎日明るく笑顔で暮らしていたことを覚えています。
母は何を喜びとしていたのだろうか?とふと考えるときがあります。子どもの成長、野菜や花々の成長、そして人様の手を合わす姿を見て、日々の喜びとしていたのではないかと、今では考えられます。凄い人だったのだと、今朝も手を合わせ感謝しなければいけません。
出来の悪い私がごねますと、困った顔をしていたことも思い出します。今考えますと本当に親不孝で罰当たりな子であったと反省と後悔ばかりです。私は子ども時代自分の事しか考えない子どもでした。恥ずかしいことです。
「心こそ、心惑わす心なれ、心にぞ、心、心ゆるすな」とは沢庵禅師の名言です。己自身の心がすべての迷いと愚かさを招くのです。
心は一定していません、縁に触れていろいろな心模様が引き出されるのです。このことを確かにしましょう。自分がしっかりしていれば大丈夫だなどと自分を侮ってはいけません。そのような自信過剰が一番過ちを犯すのです。
子どもの頃、知識もなく、我欲(心)に翻弄されていた私でした、意のままにならなければ自暴自棄になり周りに当たり散らしていたのです。怒りです。しかしどんなに怒っても、どうしようも出来ない、どうにもならない事実をあるとき知りました。
怒りはある意味で「力の源泉だと思っています。」それは「どうしようもない怒り、どうにもならない怒りを感じたとき、」「私を高みに持ち上げてくれたきっかけ、動機付けとなってくれたからです。」
周りに当たり散らしていたときは、「自分に対する怒りの足り無さでした。」怒りより、「楽、穏やかさをもとめるからです。」どうしようもないとき腹が立ち、怒りが湧くのに、「その腹立たしさを外に向け、楽を求め、人に安心を求め、同じ事を繰り返したのです。」
「厳しさより、優しさを求めるのが人です。」しかし、ある時から「真の優しさは厳しい自己修練、鍛錬によって培われることを知りました。」
「自分への怒りの心によって醸成され、不動の心を支える基となることに気づいたのです。」
「偽りの優しさなど、いざという時に何の役にも立たないことも知りました。」「世の中、どうしようもない力に屈してはいけないときがあります。」「矛盾にじっと耐え、共に歩む優しさに気づかねばなりません。」
そんなとき、「真の優しさを発揮できるのは、自分が怒りに触れ、その怒りを受け止めてくれた人がいることを知り、そして真実の優しさを知った者だけが力を発揮できるのではないでしょうか?」
義を見て為(な)さざるは勇なきなり、という真の優しさ強さのあることを母親の優しさで知りました。母に対し愚かな態度を取り、泣いている母親の姿を見て、己の愚かさを知り、己に怒り、人生を変えるきっかけをもらったのです。愚かでした。
一宮、東京と「にんげん学」講座にご出席くださる皆様の優しさに触れ、ふと昔日の自分を思い出しました。休日ゆっくりとお過ごしください。
今日は午前10時より「心華寺・水子供養祭」ですおまいりください。明日は「にんげん学」京都講座「老子を読む」会場でお会いしましょう。楽しみに出かけます。

世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。
日々の徳目、勤勉・質素・社会と人のために一隅を照らす。  合掌
私たちは熊本・大分地震の復興支援を応援します。ボランティアの皆さんご苦労様です。お気をつけてご支援ください。ありがとうございます。
※先日とある所での蓮の花です。この誰でも魅了する蓮の花は泥の中でしか咲かないのです。御仏の教えのシンボルになったことが分かるような気がします。泥をかぶるような覚悟が美しさを引き出すのでしょう。