ダジャレで

おはようございます。

昨日からの雨は止んでいます、宇治は被害がありませんでしたが、各地で被害がないことをお祈りします。今朝は随分と涼しく虫の声が軽やかに聞こえます。昨夜も寝やすくぐっすりと休みました。
変な話しですが、変でもないかな?、寺は作務、雑事と思われることが一番の修行です。今では私は誠澄に任せ放しですが、昨日も信者さんたちに「仏器(お祈りの時に用います真鍮制の容器や燭台、花瓶等)のお磨きに来ていただきました。」ありがたいことです。
修行時代師匠や先輩に作務をしながらいろいろな話しをお聞きしました。それが結構楽しくダジャレ的なんですが、妙に納得してしまう。
本堂や廊下を拭き掃除をしていると、「福が来るように、キレイにする、福掃除や」「便所には福の神(拭くの紙)がいる、だからきれいにすると福がくる!」「庭を掃き作務をすると心が温かくなり、心が寒くならないのだ!」、これって結構「こじつけ」ですが、聞いていると、そんな風に思えてくるのが不思議なのです。
作務を最初から主体的、能動的にやっていたわけではありませんが行の中の一つ、それも最初は一日中が作務、作務は理屈ではなく体を通してやらなければ何も前に進まず終わりません。
毎日やっている中に体が動いてしまうようになるのが不思議です。やらずにおれなくなるのです。。
朝の起床も決められています。というよりも一日のスケジュールが決められているのですが、これが「ダラダラしていた自分をキチッとしたものに変えてしまうのです。」やらないと朝歯を磨かないと気持ち悪いのと同じ。
歩く姿勢一つ、座る姿勢一つ、目線一つ、寝る姿すべて決められています。それが無意識美しくなるように行うのです。お陰様で気を発することができるようになりました。ボーット歩かない、漫然と歩かない、そうすることで体全体から気が発する、オーラとなるのです。
昨日皆さんがお磨きのお手伝いをしている姿を拝見して、修行時代を思い出しました。何かしら心が熱くなりました。昨日お師匠からお電話をいただいたこともあるのかもしれません。
刃物を磨き研ぐときにいろいろな砥石を順番に使って研ぎあげていくように、基本を身につけていますと、幾つ何歳になっても修行ができるようです。作務と雑事を基本としていますと、仕事というものがなくならないのです、これが不思議なことです。いわゆる発想力が失われない、気づくのです。
何故かなと考えた事があります、「作務、雑事は形を持たないからだ」と気づかされました。「作務、雑事=仕事に形はないのです。」世間で仕事がない、仕事が無くなったと考えている人の多くは「○○でなければ仕事ではない」と考える人が多いからではないでしょうか?。だから行き詰まるのでは?。皆様の今日一日が幸せでありますように。

世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。
日々の徳目、勤勉・質素・社会と人のために一隅を照らす。  合掌
私たちは熊本・大分地震の復興支援を応援します。ボランティアの皆さんご苦労様です。お気をつけてご支援ください。ありがとうございます。
☆お磨きです、皆さんありがとうございます。そして今朝の風景、随分夜明けが遅くなりました。

きれいになった仏器でお護摩を修します。

5時前でまだ真っ暗です。