松無古今色

おはようございます。

今年に入ってから持病の関節リューマチの痛みを少し感じています。古希の節目、節目のときに悩まず素直に感謝し対応しぃや、と天が言っているように感じています。
「松に古今(ここん)の色無く、竹に上下の節有り」という対句があります。松はいわゆる常緑樹で、「松樹千年の翠(みどり)」という句もありますように、春夏秋冬、いや幾歳月を通じて常に青々として、その色を変えることはないのです。
竹もまたいつも青々としていますが、これには上下に節があるというのです。これは松と竹、無と有、古今と上下とを対比させ、すばらしい修辞の妙をえた佳句です。これは単に松と竹の生態を描写しただけのものではありません。仏教の法理を含蓄させているのです。
仏の教えは「人間平等を説き主張します」が、それだけでは矛盾を感じます。なぜかといいますと、「男女・老幼の差別を無視し、また逆に貧富・上下の差別だけを認めて人間としての平等を認めないのは」共に「物事の一面しかみないもので謬(あやま)りだからです」。
平等でありながらそのままで「差別歴然(さべつれきぜん)」、差別歴然でありながらしかも「一味平等(いちみびょうどう)」「平等即差別・差別即平等と観ずるのが」、「真理にかなった円満な見方、見解なのです」。
しかし、難しい、体に痛みを感じたり、大病・難病を患いますと「人間平等なんかじゃない、何で私だけがと世の中を怨んでしまうのも人情」。しかしこれでは何も解決しない、解決しないどころか「悩み苦しみを深めるだけ」となるのです。やはり「さとらなければいけない」。
古歌に「雨あられ雪や氷とへだつれど、とくれば同じ谷川の水」。これは、「この間の消息をうたったものです」。
「松に古今の色無し」で「平等一色の面」を。「竹に上下の節あり」で「差別歴然の面」をうたい、「全体としての平等即差別・差別即平等の真理を表現したのです」。
痛みを感じてややもすると差別観を増し、自分を卑しめ、貶め、思いが卑屈になることになってはいけないと自分に言い聞かせ、修養を改めて行うように御仏は痛みを与えて下されたと日々感謝しています。
そして、人様を見るとき、差別即平等観を確かにせよとご本尊様は試練を与えて下されたのだと考えています。松も竹もいつでも青々としているように、痛みにまどわされないようしております。
今夜は「にんげん学」京都講座「老子を読む」。柔弱こそ最強、水の柔軟に学べと老子はいいます。老子の世界観を皆さんとご一緒に学び、Taoの平等観を確かにします。皆さん会場でお目にかかれるのを楽しみにしています。
上下、差別一辺倒では「引きこもりを増大させ」、長幼の序のない平等一辺倒では「無秩序を生みだす」ことを知りましょう。「差別即平等、平等即差別」です。
新しい週が皆様にとり幸せな一週間でありますことをお祈りいたします。

世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。
日々の徳目、勤勉・質素・社会と人のために一隅を照らす。  合掌
☆誕生日にいただいた花を接写してみました。


☆雲に魅せられて