リーダー学の要道

おはようございます。

昨日は曇ってはいましたがさわやかな一日、今朝もさわやかな朝です。縁は私たちの活動に大きな影響を与えます。すべては縁に従って行うべきものです、いわゆる「随縁行」。人を愛することも、世界や人類といった大きな概念を弄(ろう)するよりも(わかっているような高尚なことを言うよりも)、先ず身近な人から始めなければいけません。
理論的、学問的に堂々たる素晴らしい人でも、観点を変えてその人を拝見しますと、あれ?はてさてと思ってしまう方が結構多いものです。
人生は「喜怒哀楽(きどあいらく)」、この感情生活が最も大事です。この感情生活をどうするかということが学びの根本。
修行したから、学問したからといって喜怒哀楽を感じないような朴念仁(ぼくねんじん)に人間的魅力など感じません(朴念仁=物の道理が分からない人。分からず屋。おもいやりの心が足りないこと。)。
人間、いかに喜び、いかに怒り、いかに哀しみ、いかに楽しむかということです。御仏の慈悲はこの喜怒哀楽をいいます。身近な人と共に喜び、共に怒り、共に哀しみ、共に楽しむということです。
人生の諸々の問題はすべてこの喜怒哀楽から生じます。「喜怒哀楽を共にできれば」問題とならず、問題が生じたとしても互いが歩み寄り安心した豊かな日々の暮らしとなります。つきつめれば、私たちの心の持ち方、生き方によって幸福になるのです。
王陽明という人の言葉に「天下のこと万変(ばんぺん)と雖も、吾がこれに応ずる所以(ゆえん)は喜怒哀楽の四者を出(い)でず。これ学を為すの要にして、政(まつりごと)を為すも亦たその中にあり。」と。
喜怒哀楽発して、みな節(せつ)に中(あた)るともいいます。いろいろな問題も、解決法もこの四者から出るのだというのです。
王陽明は人間に感情があることを否定しませんでした。むしろ、「事上磨錬(じじょうまれん)」という言葉で説かれるように、静座の修養を善しとはしなかった。人間には感情があり、いかにその感情が現実に当たって乱れないようにするかを大切にしたのです。
いかに喜び、怒り、哀しみ、楽しむかが学問を修める上で肝要であり、政治(会社経営)もまたそうなのです。人は素直な感動を以てこそ、生きることができると私は思います。
最近の脳科学の研究では、感情は論理より上位にあるとも言われます。論理的判断は、実は感情の下でなされている。結局、人は感情を持つ存在であり、その感情をいかに発するかが人の格を決めます。
中庸(ちゅうよう)の第一章「喜怒哀楽の未だ発せざる、之を中と謂(い)う。発してみな節に中る、之を和と謂う。中は天下の大本なり。和は天下の達道なり。中和を致して、天地位し、万物育す。」と。
喜怒哀楽は外からの刺激によって生じるものであり、普段は静かに偏りなく、自身の中に渾然としてあるのです。これが「中」であり、大本です。偏見や贔屓目(ひいきめ)を持たず、鎮まっていなくてはなりません。
その喜怒哀楽は物事に応じて発せられ、それを発して節度に合する。過ぎることもなく、及ばないこともない。これが「和」であり、達道です。正しい情を得てはじめて、正しい判断を下すことができます。
人が生きる上で、また、会社を運営する上で、喜怒哀楽は当然、発せられなくてはいけません。感情、感動をなくして、人は動かないのです。
では、その喜怒哀楽をいかに発するか。きちんと喜ぶべき時に喜ぶことができるか。いつが怒るべき時、悲しむべき時、楽しむべき時なのか。それを知り、行えるようにするために「心学(学問)」があるのです。
修養は「事上磨錬」、事に当たって修養すること、そして、それぞれの状況に素して行うことが重要です。そうしてこそ、正しい喜怒哀楽の発し方を学び、習うことができるのです。虚心坦懐に学びましょう(素行=富貴は富貴に、貧賎は貧賎に行う修養。貧しくて修養できず、富み豊かになり学を失うではよろしくありません)。今日開店します「子ども食堂」も「共に」の心、現実から学んだことです。
今日午前10時に入山します「介護甲子園幹部研修」の皆様お気をつけて入山下さい。明日は、心に華を咲かそう会、第18回「盲導犬育成・地震復興支援チャリティゴルフコンペ」を開催します。まだエントリーできます、ふるってエントリーください、お待ち申し上げます。
今日は喜怒哀楽を発しましたら事上磨錬の一日をお過ごし下さい。

世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。
日々の徳目、勤勉・質素・社会と人のために一隅を照らす。  合掌
☆嬉しい朝焼けです。