先祖供養は対応力

おはようございます。

下関・愛宕寺「盆・施餓鬼法要」おまいりお手伝いありがとうございます。皆様の厚いご先祖様への感謝の行動、嬉しい一日でした。全国から施餓鬼供養をお申し込みいただきました皆様確かに、おまいりいただきました皆様と共に供養を奉修致しました。
「積善の家に余慶(よけい)あり」と申します。積善の最たる積善は「先祖供養」です。意は「善行を重ねているような人の家庭には、自然にめでたいことが集まってくるものです。人知れず善いことを積み重ねていくよう努力することは決して無駄にはならない」ということ。
「善行を積んだ人の報いは、子々孫々まで伝わる」という意でもあります。ですから子々孫々先祖供養を怠らなければお家の安泰は永続するのです。先祖にお仕えすることは親兄弟に仕える事。親兄弟というのは社会に出れば、会社の長であり、同僚の方々。
日常生活の中で自然に無理なく修養できるのが朝夕のご先祖様へお仕えすることです。知は行動すること。知行合一(ちこうごういつ)、知行合一が難なく身につくのが日課。習慣は第二の天性。
自然は繰り返すからこそ変化、進化発展します。私たちも日課の繰り返しが出来ることでどのような変化にも対応できていく心身が自然に身につくのです。
この世は創造変化の連続、創造変化の連続について行けない人は、日常の日課、仕えることが無い人です。仕えるということは、どのような変化の中でも仕えるのが基本。このベーシック、基本ができていない人は決して対応力は磨かれません。磨かれないというより、日常に磨いていませんから、天性が錆び付きどんどん切れ味が鈍くなり、対応という言葉だけは知っていますし、やればできるという思いだけがありますので「一層現実は最悪で悲惨な事態を招くことになる」のです。それは基本行動を身につけていない悲劇と言って良いかもしれません。
道理に則した基本が無い人は、「我だけで行動するからです」。故に益々我が強くなり、道理に無い「自分勝手な思い込みだけで行動し、泥沼状態に陥るという最悪な事態を招くのです」。何故我になるのかは歴然としています、それは、方法を知らない故の悲劇、幸せになる方法を知っていれば我になるはずがないのです。失敗すれば迷わず修正できるから、修正するからです。
明日は心華寺「盆・施餓鬼法要」午前10時からです。お待ちしております。今日は土曜日、しっかりと一週間の自反をしましょう。自反は夢があるからこそできるのです。

世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。
日々の徳目、勤勉・質素・社会と人のために一隅を照らす。
☆Mさん、昨日も早朝から皆様へのお供養ありがとうございます。美味しくいただきました。