先祖供養は幸せの源泉

おはようございます。

今日は下関・愛宕寺「盆・施餓鬼法要」午前10時からです。私は僧だから当たり前と言われそうですが、ご先祖様への感謝の祈りを捧げたからこそ今の幸せを授かったと日々感謝しています。私が誕生、そして生きていく上で何千、何万のご先祖様が支えてくだされていると考えるだけで感動し安心して暮らしています。
先祖供養は「幸せの源泉」、このように考えています。汲んでも汲んでも汲み尽くせない源泉。
ご先祖様を経糸(たていと)に、精神の芯・軸として、地蔵信仰、水神信仰を緯糸(よこいと)としたからこそ安泰安心の人生を過ごし成長、進化が叶い、友を多くできたとの思いを強くしています。
昨日も新幹線に乗り下関に、近くでは家が飛び、田が飛び、山が飛び、青い空には白い雲が去って行く。稲穂が風にたなびき、山並みが美しく、遠くにはときおり姿を見せる瀬戸の海、私の心をどこまでも楽しませてくれます。
人生、平等ではありません、でも、あるときから不平等感を感じることはなくなりました。人生は凸凹。凸凹だから美しい。昨日まで心華寺では、今どきの寺子屋「少年・少女親子塾」を開催。小学低学年から中学生まで同じ事をやって二泊三日の生活、この凸凹感が美しい。
年齢も性別も違い、能力、体力も違う、でも同じ事をやる。同じ事をやるから、摩擦もあり、協力も、泣き笑いもする、それが美しいこの凸凹が美しい。
万能な人間などいないのです。万能な人間など必要ないのです。人は人と協調し合ってこそ喜びがあり、楽しいこともある、だからこそ美しさに感動、調和に感動する。年齢が違って、下の子が上手かったり、上の子が下の子に教えてもらったりする姿、その逆も在り、これが社会。いびつこそ、凸凹こそ社会なのです。
ご先祖様に感謝する毎日から、この喜びや感動、価値観に目覚めることができました。ご先祖様の中にも、いろいろな人がいたことでしょう。でも皆さんきっと懸命に生きたはずです、私も懸命に生きてきました。これからも懸命に生きます。
人を怨んだり、うらやましがったり、親を怨んだり、しかし結局は感謝できた。日々ご先祖様に手を合わせてきたからです。何があっても、上手くいかなかったときも、上手くいったときもご先祖、ご本尊様に報告感謝、自省し続けたからこそ、皆の輝きを感じることができるようになった。理屈では無い、知識では感じられない、体感の感動です。
ご先祖様への感謝を基軸として日々暮らしてきたお陰です。山は低い山を馬鹿にせず、低い山は高い山にへつらわず在る。だからこそ見る者を感動せしめる。だれでも喜怒哀楽を感じます。日々感謝の暮らしをしていれば、きっとあなたをご覧になった人は美しい景色として感動するはずです。私はこのように感じて多くの素晴らしい人びとと巡り会えたと思っています。
見返りや、相対評価ではありません。すべからく、感謝が気づかせてくれました。感謝とは一歩引いて見ることです。引いて見ますと、人に先んじていなければ、人より秀でていなければという愚かな事を考え、思い悩んでいたことが、本当に愚かに感じるようになったのです。
知識以前に五感(眼・耳・鼻・舌・身)で感じ、私の出来ることが沢山見えてきたのです。身近では作務、掃除(特にトイレ)、雑用と皆さんが感じていること、修行時代のお山では信者さんがお持ちになっている手荷物を持たせていただくこと、先輩、高僧の皆様のちょっとしたお手伝い等々。感謝からポストが見えてくるのです。自分が出来ること、これならできるのではと感じ取れるのです。そして世界が広がりました。先祖供養は永遠の幸せの源泉です。感謝し一歩引いて見れば、やることが尽きなくなるのです。オレがオレがと我で見るようになると近視眼になり何も見えなくなり、やることがなくなることも知りました。
明後日は心華寺の「盆・施餓鬼法要」おまいりください。今日も感謝の一日をおすごしください。今どきの寺子屋「少年・少女親子塾」に参加の少年・少女の皆さん素晴らしい人生をお過ごしください。来年またお元気でお会いしましょう、ありがとうございます。

世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。
日々の徳目、勤勉・質素・社会と人のために一隅を照らす。
愛宕寺の玄関でお花がお待ちしています。



☆今どきの寺子屋「少年・少女親子塾」ご参加ありがとうございます。お勤めもよく精進くださいました。何かありましたら三日間の厳しさを思い出し踏ん張ってください。お疲れ様でした。
そうめん流しも楽しかったですね。仲良くしてくれてありがとう。