忠告はありがたく受け止める

おはようございます。

新しい一日、新しい週の始まり、楽しんで新しい一日、新しい一週間と向かい合いましょう。どのような状況に出会ったとしても自分を生きる、ポストにベストです。失敗をするとしたら、それは欲では無く、前よりも上手くやろうという姿勢が、失敗となって現れたのです。それはチャレンジした結果。失敗したからといってチャレンジ精神を失ってはいけません。今週もチャレンジ&リスポンスの精神。
私に限らず皆さんも多くの方々と毎日出会います。そんな中「忠告はありがたく受け止める」ことにしています。人は相手によって言葉を受け入れたり、受け入れなかったりします。私は言葉そのものはどなたが言っても正しいとしています。
正しいからこそ、中には日頃の言動から「おまえさんには言われたくない」と否定してしまうのかもしれません。このように見ていきますと、やはり「言行一致の大事が見えます」。私はできる限り調子に乗ってしゃべりすぎることに注意をしています。勢いに任せないということです。口は災いの元。
「知っている(話せる)=できている」、ではありません。言える=できることとは違うことを知っているからです。知っていてもできないことを確かにしていれば、「こう在りたい、このように行動したい」という話しぶりとなります。
話し上手は「聞き上手」とも言われます。ですから、聞くことは大切にすべきだとも思っています。
呂新吾(りょしんご)の呻吟語(しんぎんご)に、
「過ちを忠告してくれる人は、必ずしも過ちを犯したことがないとはかぎらない。
 過ちのない人に忠告してもらおうと思ったならば、それは一生涯かかっても無理という ものだ。
 過ちを忠告してくれるそのことだけに、ありがたみを感じていればいいのである。忠告してくれる人が以前の過ちを犯したかどうかなど関係ないのだ。」
いかがです?どんな聖人君子でもあっても、過ちを犯したことがない人などいません。私たちは自分の過ちを糧にして自己を磨き、その経験を他人に適切な忠告として分け与えるべきだと私は考えています。
そのためにも師匠からの忠告、立派な人だと思える人の忠告は、自分の血肉になると感謝し受け止めるのです。
そして更に自分にとって大切なことは、誰も過ちを犯したことがないという人はいないのだからといって、自分が過ちを犯しても善言だからといって人様に偉そうに言うことは許されるのだとして、偉そうに言ってよいことにはなりません。このことを最も大切にしなければいけないと肝に銘じています。
それは教え、言葉に恥じない行為であり、信用を失う行為でもあるのです。世間には立派なことを言っているのだが余り信用されていないのでは?という方も見受けられます。
善言であればあるほど、相手からの反論や、それ以上に怨みを買う、喧嘩を売ることにもなるのです。日常の言行が如何に大事かが察せられます。
言葉は適切に使いましょう。そのためにも修身は大事です?教えは言葉は己を慎むことにもあります。明日は対人関係の指南書「にんげん学」神戸講座「論語を読む」。午後6時半、会場でお待ちしております。
今週一週間、充実した一週間でありますようお祈り致します。

世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。
日々の徳目、勤勉・質素・社会と人のために一隅を照らす。  合掌
☆昨日の夕景、自然は感動。