修練度を上げる

おはようございます。

寒さや暑さ雨など厳しいときにおまいりいただく、正直とても嬉しい。道理は私情をはさまず、自身がくみ取り生かすもの。
私たちは人情を感じますととても嬉しい。一昨日愛宕寺の法要後に人情の素晴らしさを味わっていました。動としての陰の重要性、陽としての心が、修養に駆り立てる、陰の重要性。
この情というものがなかなかに厄介なものでもある。人間は我(が)がベースです。甘えてしまうとよろしくない。今回おまいりいただいたから次も当然きていただけるであろうと安易に考えてはいけないということです。陽の心が柔軟性を持たず、固定観念となり、甘えに心が囚われ、修養を怠り、思考が停止してしまう。
人生、自分のやっていることは正しいと思い行動します。しかし結果は別もの、良と出る場合もあれば、否と感じる場合も。そこで「揺るぎない信が大事です」。結果は「縁を通し、縁を通さなければ出ないから」です。
信とは「生涯に於いて修養する、志学(陽のイメージ確かにする)」、現実から得た結果を踏まえ日々修養。結果が自分の思うような結果が出なかったと感じること自体が、教えの示すことを信じているのでは無く、己の都合で教えを受け止めている故、結果によって不信の心が浮き彫りにされたのです。このことを知るべきです。
因縁果、因果の道理を説かれたのはお釈迦様。何ごとも縁起、縁によって生じ、縁に因って滅びる。だからこそ皆様(縁)に誠心誠意、ポストにベストを尽くすことが教えの道を歩むこと、結果云々を思うことが教えを信ずることではありません。もちろん、仕事の世界で言えば、教えは「売り手良し」「買い手良し」「世間良し」の「三方良しを教えていることに違いありません」。
だからこそ結果云々で心が豊かになったり貧しくするのは、物質的な物を求めていたに過ぎないことを知るべきです。
どのような結果を承けても、日々一層教えの道を弛まずにするのが道を歩む者の姿勢。結果云々で一喜一憂し修養を怠り、疑問、不信を感じてしまうようでは似非(えせ)です。このことは、私の歩んでいます仏道に限らず、どの道でも同じ事。道に沿って日々精進しますと成長進化します。道とはそのようになっているのです。
しかし、進化するに従って壁がある。階段、レベルが上がれば必ず踊り場があるということに気づきます。
しかしこの「壁を知る、壁を感じることに気づかない人が意外と多い」。それが不信の元でもあります。壁は自分で気づき自分で乗り越えるしかありません、教えられず、教えてもらえないのです。
時に不信に陥ってはならず、日々弛まず精進することで解決するしか方法はありません。精進することで又成長し、壁に気づくのです。結果に素直になって不信になるのではなく、信を新たにして精進することが一層豊かに成長できるのです。
壁を感じないのは人生の初心者でもあります、これは年齢や経験に関係ありません、初心者の時(初心者から抜けきれない人)は道理、方法を覚えること、知ることが大事であり、結果云々などに心が向かないのです(目指す目標が確かでない)。ですから壁を感じることもなく、ただひたすら方法を知ることが教えだと思っているのです。
この段階で終わる人は結構います。壁を感じたとき不信感を持ち、職場から去ったり、こんなはずではと否定してしまい、初心者の時に最初の壁にぶつかり、壁と知らず乗り越えられずに過ごしますと、永遠に成長も進化も出来ずに、いわゆる「うだつの上がらない人生を自ずから作ることとなる」のです。
世の中に問題意識も何も持たず、後から来た後輩から抜き去られるという不満の相談に来られる人がおります。それは、道理や法則を知ることが道だと勘違いしている人です。
日々の工夫、精進というものを理解できていないのです。だから壁も感じず、成長しているのか、否かも気にならず、しかし現実は後輩や社会から置いてけぼりにされてしまうので教えや先輩、仕事に疑問、不信を持つ。
人生基本を学び終えた頃から、進歩の度合いが鈍くなります。それは修練度を上げる課題を見つけられず、必要性を感じていないからです。
しかし周りをじっと静かに見ればわかることなのですが、同じ事をやりながら、周りの人の対応が自分と他者の間に違いが出ていくのです。しかし壁や不満を感じていながら、人や教えに不満疑問を感じている人は、修練度を上げようとしないのです。これが致命傷です。
副住職・誠澄は先日来修養していた懺悔連行を行じ、修練度を上げ、負荷を自らさらにかけ直しているのです。そして又壁です。今日から誠澄は「断食・断水・不眠・不臥」の命を賭した一週間の修行に入ります。
これとても、基本を確かにできてこそレベルアップの必要性を感じての修練度のアップです。自分を高めようとしてこそ加持力が増し12月3日に皆様への「お灸鉢かぶり加持」が行え、「大根焚き」が、がん・中風・ぼけ封じのご利益があるのです。
新人時代、基本を学ぶ時に、覚えればこれでいいと錯覚し、誤った考え方、自己満足を持つ修行者がいます。このような人は修行という本質を確かに理解できておらず、修行・縁の大事を疎かにしてしまう人です。このような人は永遠に、良縁を得ながら縁と出来ず、善因善果の因果、醍醐味を味わうことも出来ないのです。
法味、教えの素晴らしさを味合わず、喜びを感じずに上を目指し、乗り越えなければいけない壁という課題を自ら感じず、何も進化しない、変わらないままに、先輩から上を求められ、失敗して苦しみを味わい、苦しみを味わう結果不信に陥るということが起きてしまうのです。
慢心はどのレベルでも起きます。50階の建物でも踊り場はあるのです。学ぶ意欲、新たにチャレンジするものを感じないということが慢心である証です
今日から誠澄同様又新たな精進が出来る喜びに浸っています。おまいりいただきました皆様ありがとうございます。
寒くなりましたが休日大事にお過ごしの上明日からの11月の最終週、修練度をアップしてじっくりと歩んでください。
昨日から一泊二日で心華寺で開校されています「M&Uスクール」ご参加の皆さん夕方まで新たな自分と出会う喜びの学びをしてください。ありがとうございます。
明晩は「にんげん学」小倉講座、明後日は神戸講座です。各会場にてお待ちしております。

世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。
日々の徳目、勤勉・質素・社会と人のために一隅を照らす。
※どのようなご相談でもどうぞ。0774-44-5380。メールbonsan01@wao.or.jp
☆心華寺で参籠修行をしてみませんか、非日常の空間に身を置き、作務(掃除)、読経、坐禅、写経、五官の対象をすべて聖典に置き、自身と対峙する。新たなあなたが見えてきます。
☆昨日Wさんに長府庭園と高杉晋作墓所、東行庵にお連れいただき紅葉狩りを楽しみました。







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