作為せず

おはようございます。

私たちが悩み苦しむのは、道理を学びながら、我でそれを用いるからです。道理は合理性で成り立っています。道理に則してこそ道理として成り立つのです。この合理性を学びながら合理的に生かせないから悩み苦しむ。
上にも書きましたが我で、情で、自分の利としたいと考えるから道理、論理が生きてこないのです。このことを老子は「作為(さくい)」と呼んだのです、今夜学びます「老子」は「無為(むい)」を教えます。
無為とは万物が「道」に順(したが)って生きていくのに基本となるスタンス(立ち位置、ありよう)が「無為自然」です。「現時点での己の分(ぶん)を知る大事がここにあります」。思い=実力と錯覚しませんように。知っている=出来ると勘違いしませんように。
無為自然(むいしぜん)」は、人間にとって「どう生きるべきか」の指標となるものです。「自然」は「自(おの)ずから然(しか)り」、他からの影響を一切受けることなく、大昔からそれ自体がそのようであるさまを意味しています。「無為」はというと「なんら作為をしないこと」という意味になります。つまり「無為自然」は「なんら作為をせず、あるがままの状態」をいいます。
皆さん、知識を生かそうとするのは「無為自然ではなく」「作為といいます」。だからエゴとなり、相手から目の前の人から拒否される事態を引き起こす事にもなるのです。そして愚かにも争ったりするのです。
老子』の中には、「無為」という言葉が頻繁(ひんぱん)に登場します。「無為」と「道」の関係を第37章に。
「道は常に無為にして、而(しか)も為(な)さざる無し」。(道はいつでも何事も為さないでいて、しかもすべてのことを為している。)
「何事も為さないでいながら、すべてのことを為している」——まるで謎かけのようです。
「無為」という言葉は「無為無策」「無為に過ごす」のように「なにもしないでいること」という意味でよく使われますが、『老子』で使われている「無為」は「意図や作為のないさま」という意味です。これは、一切なにもしないということではなく、「作為的なことはなにも行なわないこと」と、とらえてください。
では、「作為的なことはなにもしていないのに、すべてを為している」とは、どういう状態か。天地を例にして考えてみると、天や地は意思をもたないから常に「無為」の状態といえますが、無為でありながらも、「その働きは常にこの世界全体に行きわたっています」。季節はめぐり、太陽は大地を照らし、雲は雨を降らし、大地の上では植物や虫や動物がそれらの恩恵を受けて育っていく。つまり「なにかをしようとわざわざ考えずとも、天地はすべてのことを為している」ということになるわけです。
そう考えていくと、「老子」でいう「無為」とは、「意図や意思、主観をすべて捨て去って、「道」(天地自然の働き)に身を任せて生きているありようを意味している」といえます。『老子』はこの「無為自然」を理想のあり方としました。
私は「自分の愚かな少ない知識で作為的に生きようとして苦しみ悩んだのです」。まったく愚かな事で、滑稽極まりない生き方です。少しの知識で慢心し、自惚れて世の中を見ていた、恥ずかしい限りです。皆さん今夜はご一緒に楽しく豊かな「老子」をご一緒下さい。無為自然を為すことで大いなる展開となるのです。
今日は無為自然を心の隅に置いてお仕事に携わって下さい。作為からは良い物は生まれません。

世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。
日々の徳目、勤勉・質素・社会と人のために一隅を照らす。 合掌
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人生は行き先を決めたとしても、道中、どのような出会いがあるかわかりません、どのような出会いがあったとしても、動じない自分を作っておきましょう。