自戒

おはようございます。

 5月、一ヶ月お訪ねいただきありがとうございます感謝いたします。毎月書かせていただける幸せを味わっています。私は皆様に参考にしていただけることはとても嬉しいことと感謝しております。ブログを日々書き始めた本意の一つ「自戒」。
 荀子 (じゅんし) という古典に、次のような言葉があります。
 「原 (みなもと) 清ければ則ち流れ清く、原 (みなもと) 濁れば則ち流れ濁る。」
  訳は「源が清ければ下流は清く澄んでいるし、源が濁れば下流も濁る。」。意味は、「根本を正すことが肝要であり、上が正しくなれば下は自ずと正しくなる」 。
 リーダーこそ 「我が身を正せ」、この言葉は昨今の社会問題を鑑(かんが)みても大切な教えです。「心学」の重要性がここにあります、是非ご一緒に学んでいただきたいと願っています、初心を忘れないために、人間は慢心するものだからです。
 教えを説く人を揶揄(やゆ。からかう)する言葉に「先生と言われるほどの馬鹿はなし」。「知るとは不知なり」という言葉もあります。知識人は独善的になりやすいということです。自分だけが正しい、最も愚かな思考です。このような言動が平和を乱し争いを引き起こすようになるのです。小は家庭を崩壊し、大は国、会社を滅亡させます。
 荀子のこの言葉は、リーダーシップの教えであると解釈できます。「上に立つ者はまず我が身を正せ」 ということです。
 リーダーの姿勢が手本として部下に示され、全体に影響するのです。リーダーという組織の源が清ければ、チーム全体も清くなるだろうと言えます。その逆もまた然りです。
 もちろん、我が身を正すことだけで、リーダーとして役割を果たせるとは言えません。リーダーとなるには他に必要な要件があるでしょう。
 我が身を正すことは、リーダーシップの必要条件ではあっても、十分条件ではありません。荀子のこの教えは、リーダーのための出発点ではないでしょうか。
 では、どうすれば我が身を正すことができるのでしょうか?
 「慎独(しんどく)」 から我が身を正しくする。ヒントは 「慎独 (しんどく) 」 にあります。
 慎独とは、古典である 「大学」 に書かれている 「君子必慎其独也 (君子は必ず其の独りを慎むなり) 」 から来た言葉です。意味は、「自分一人のときでも行ないを慎み、道をはずれないようにする」 です。
 何か後ろめたいことであっても、人が見ていないところではついやってしまう。これは人間誰しも起こり得ることです。慎独は、その状況でこそ自分を律することができるかを問うのです。
 人が見ていなくても、見られている時と同じような行動が取れるかです。他人が見ていないということは、その状況を誰かに言わなければ自分だけしか知らないことです。少しくらいならいいではなく、自分の行ないを慎み、人としての道を外れないようにできるかです。
 もっと言えば、自分の行いや自分自身を律することができるかの判断基準は、誰か他の人が見ているかどうかで決めるべきではないのです。
 あくまで自分自身の中の問題として捉えるべきです。人の目があるかどうかは関係なく、自分が持つ倫理観に背く行ないであればやらないことです。この積み重ねが 「我が身を正す」 ことにつながります。
日々、聖典を読み、賢人の書を読み自反する大事がここにあります。声高に正論をいうのではななく、静かにゆったりと行動する、自然豊かな人生となります。人を責める前に自分を責める、自反する。
 それでこそ、一人、また一人と静かに慕いしたがって下さる方が出ることを信じるのです、私が教えに、道理に、天理に目覚め、師を慕い従ったようにです。その意識を自反させていただくために夕方師の元を訪れます。一ヶ月ありがとうございます。

世界平和をお祈りいたしましょう。Flower in your mind・ありがとう・心に華を咲かそう。
「仕事運が良くなる」日々の四つの実践徳目:慈悲の心を持つ(思いやりは勇気)・質素倹約(物心両面のゆとりがなければ心貧しくなる)・謙虚な心(争いを生まない)・一隅を照らす(ポストにベスト)。 合掌
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