上に立つ者として

おはようございます。

今朝は曇っているようですが、窓から爽やかな風が入ってきます。
昨日の第一日曜日沢山の方々とご一緒にお祈りが出来とても幸せでした。

今日から一泊二日の管理職研修、
言葉を通して伝える立場として皆様の前で話をする前の日常「どうあるべきか」をしっかりとして取り組みたいと日々思っております。
また今日の上に立つ人の人を導く「在り方」をお話しをしたいとも思っております。

以前もお話ししたり、書いたりしておりますが、「知識と人格は違う」ということです。
知識が豊富であればあるほど人格が豊かになるのが本来なのですが、やはり学びの動機付けが過っていればその使い方も誤るということです、
何を申し上げたいのかと言いますと、ホリエモンや村上フアンド、また一部の役人や議員の方の中にも数多くこのように感じる人もあります。これも知識教育の偏った結果であり、彼らもその被害者の一人であることは間違いのないところです。

「知識教育と道徳教育」が平衡して行われてこなかったからです。
そのために多くの犠牲者、公金の無駄遣いを出すという結果を招くのです。
誰しも上に立つ優位に立つことは嬉しいことであり、上に立つとはどのようなことかという「徳育」を施さなければなりません。

ただ名誉欲や金銭欲、支配欲を満足させるためか、それとも家族や市民、国民、社員を豊かに安心して人生を送ってもらうためかということです。
「公私の在り方・公私のケジメ」を「道徳教育」によってはっきりと「知らしめる」必要性が「教育」にはあるのです。

論語「里仁篇」に
「子曰く、富と貴きとは、是れ人の欲する所也。其の道を以て之を得ざれば、処らざる也。貧しきと賤しきとは、是れ人の悪む所也。其の道を以て之を得ざれば、去らざる也。君子は仁を去りて、悪くにか名を成さん。君子は食を終うる間も、仁に違うこと無し。造次にも必ず是に於いてし、顛沛にも必ず是に於いてす。」という条があります。

意は「孔子言う、富貴は人情の共に欲し願うところである。従って富貴を求めるのはよいとしても、人生の終極の目的は仁道に存するのであるから、仁道を以てするのでなければ、たとい富貴の身分におることの出来るような場合でも、君子はその境遇におろうとはしない。又、貧賤は人情の共に嫌い憎むところである。従って貧賤を去ろうと務めるのはよいとしても、仁道を以てするのでなければ、たとい貧賤を去ることの出来るような場合でも、君子はその境遇に安んじて去ろうとはしない。」。
こうなければいけませんね、皆さんもそうお思いになりませんか?。

要するに、私たち君子は富貴貧賤何れの境遇に処しても、常に其の道すなわち仁道を得ることを専一に考える。
従って、君子がもし世に名をなすというならば、必ず仁道実践の上において名声を得べきものであって、この仁を去っては、どこにも君子たるの名をなすところはない。
かかる訳であるから、君子は食事を終えるほどの極く短い時間でも仁にたがうことなく、
又がたがたとした慌ただしい場合でも或いは危急存亡というような場合にも、必ずこの仁道によって身を処して行くのであります。

このように「知識」とは「かくあるべき」なのです、明日は「にんげん学」大阪講座です、よろしく学んでください。

世界平和をお祈り致しましょう。ありがとう・心に華を咲かそう。       合掌