常なるもの

おはようございます。

昨日も暑い一日でした、
一昨日からの一泊二日の研修生も昨日午前中に元気に帰り、今日も午後から一泊二日の研修生が入ってきますので元気に出迎えたいと思います。

研修生の方にも信者の皆さんへのお話でも共通していることがあります。
何かと申しますと「一定のことで自分を磨き高める」ということです。
信者さんの場合は「祈り」ですし、研修生の皆さんの場合は「学び・研究」です。

この「常」になるもの「習慣」が大事ですよ、ということの「話」です。
「一貫性・習慣性」からしか「進化」は得られないからです。
現実から学ぶことが多いのが実情ですが、問題も多く発生します、
余りにも現実に目も心も奪われますとその「対応に追われ」自分を高めるということが出来なくなるからです。

現実に見事に対応することは大事なことですが、「長い目で一生を見る」ということも非常に大切です。
この事は私が少年時代から培った一つの信念でもあります。
何をやっても人に後れを取る幼少年時代、中学二年の頃から私は人と競争をしなくなった、
しなくなったとは言っても負ける口惜しさには変わりはなく、口惜しいから「意識を変えた」というほうが良く、意識を変えたという格好の良いものではなく逃げたのでしょう、逃げたのが事実です。

現実の問題解決は基礎が出来ていないのだから当然無理だということです。だから対処療法は無理、という判断を自ら下した、
現実のつじつま合わせをいくらやったとしても不器用で基礎のない者にどだい無理なのです。だから「遠い未来の夢」を見た「現実から体感した夢」、「出来るようになりたい」という「果てしない夢」と「幻想」を見続けたのです。

今まで一緒に人様とスタートをして大差なく着いたという記憶がありません、何をやっても「大差がつく」だから「大器晩成」という言葉が好きである、
「まだまだ」という気持ちを失わせない言葉、気持ち心を萎えさせない言葉。

勝ち負けってなんでしょう、それは負けることは口惜しい、でも行動もせずに「敗北者」にはなりたくはない、自分が自分に敗北者の烙印を押したくはない、逃げたくもない、人様に対しては何をやっても対抗するものは持てなかったが、自分で自分から逃げ、口先で人をののしってもちっとも楽しくもなく、面白くもなかった、
しかしあるとき「遠い未来を夢見ることができた時」から苦しさから解放されたようだ、「一貫性」を持つことによって「一つ一つ積み上げる喜びを実感」出来るようになったからでもある。しかし、しんどかったのは事実である、

しかし、しんどさよりも「常なるもの」を持つことで夢を見ることのほうが楽しみになった故今日があります。
皆さんにも「常なるもの」を持って欲しいと願っております、自分のために。

世界平和をお祈り致しましょう。ありがとう・心に華を咲かそう。       合掌