*上が濁れば下濁る

おはようございます。

今朝は久しぶり寝坊、昨夜の「にんげん学」東京講座の心地よさでぐっすり休むことが出来ました。
混迷を深めている今日、様々な社会問題が発生していますが、中でも「殺人」という恐ろしい事が日常的にもなっていることに憂慮を感じます、
それも一般市民である人が罪を犯す。

市民大衆というものは本来臆病なものです、普通の人と思われる人が大胆な行動に走る、「上濁れば下濁る(上流で毒をながせば下流の人が冒される)」の言葉が示す現象が如実に表れています。

上に位置する人の思考行動に大衆は「うさんくささ」を感じているのです、そのことを上にいる人たちは敏感に反省せねばならないでしょう。
反面大衆はスピリチュアルといった言葉や占いに飛びつきブームになっている、両極の現象、中庸のバランスがない。
一人で納得し、一人喜び、一人で嘆き苦しんでいるようにも見えてきます。

友が無い、心を静かに共有できる朋が無い、狂騒的、集団的快楽を求めるような世界はあるが、社会的に共有するものが無くなっている。見ることの出来ない「心」、「恥」の文化が無くなってしまった。
昨夜は「にんげん学」東京講座を行いましたが、徳を尊ぶ、命を尊ぶという学びを共にして下さる方がおられるということは大変力強い限りです、喜びでもあります。

一方、徳という人智では計ることができない世界を分かっているであろうという立場にいながら商売のルールに則っているとして「恥」としない官僚や政治家がいる。
上位者は社会ルールを守るのは当然であり、その上に「道徳律」を持つことがそこには求められています。

徳とは人が行動して初めて徳となるものであって、行動がなければ「道徳」とは言えないのです。「心」といい「徳」という非常に曖昧ではあるが「崇高」な世界を示し推し進めていくのが上位者なのです。それくらい「立場」というものは大変な意味を持っているのです。
ルールは正しいものですが、それを用いる人間の「心」の「在り方」が更に重要なのです、
下に位置する大衆が上位者の行動に「うさんくささ」を感じれば感じる程混迷するのが社会です、
それを又ルールで縛るという昨今の法律改正はまったく逆効果であって、何ら益をもたらさず、真っ先にやるのであれば、「道徳教育」なのです、人の教育は効率化されないのです。
そうすれば「上澄めば下澄む」のであって、犯罪も自殺者も激減することでしょう。

「にんげん学」東京講座へ参加の皆さんありがとうございました、来月も大切なお友達を誘い参加下さい光明の溢れる社会を共に作りましょう、来月もお会いできますことを楽しみにこれから宇治に戻ります、梅雨空の中、心だけは晴れやかに過ごしましょう。

世界平和をお祈り致しましょう。ありがとう・心に華を咲かそう。       合掌