悩みでも

おはようございます。

昨日は爽やかな秋晴れの中、宇治を出て夕方博多で講演、講演を終え小倉へ、信者さんと美味しいご馳走をいただき般若湯も十分に頂戴し信者さんのお宅に泊めていただきました。「にんげん学」にも毎月参加いただいてお付き合いも二十年を越します、有り難いですね。
皆さんは知識は豊富にお持ちだと思います、ですが何か問題に出会ったとき行き詰まるということを感じたことはありませんか、如何でしょう。悩んでしまう、落ち込むということです。
何故悩み落ち込むのでしょう?、それはやはり「こころに余裕がない」からと考えるべきですし、心というものを「知らない」ということが上げられます。自分のことはよく知っているよと反論が来そうですが、悩むということは「知らない」ということです。でも悩むことは悪いことではありませんから悲観しないで欲しいのです。
悩むということは「良くなりたいという意識でも」あるからです。では心がぐらついても立ち直るにはどうすべきかということですが、問題を直視し「認める」ことです。
何でという「疑問を持たない」持たないというよりも「何で」という疑問は「自分は悪くない」という「無意識」ですから、この「心、気持ちを捨てる」ことが重要なポイントなのです。
そう「知識は間違っていない」のです、では何で問題が生じるのでしょう、それは「心配り、配慮、応対、対応の拙さ」から来ているのです。知識、論理は何人にも役立ち通じる客観的思考なのですが、対人関係に於いては「情の在ることを忘れてはならない」のです。
このことを「気づくのが心、情」なのです。私たちはここで間違ってはなりません、何を間違ってはならないのかと申しますと、自分が喜ぶと同時に「相手が喜びとすること」が出来るか否かです。
論理は「自分の利」を大事にすることよりも「相手の利を大事にすることに用いるべき」なのです。それでこそ「理が生きてくる」のです、この「配慮」が「こころ」なのです。
「自利は利他」という言葉があります、これは「人の利が自分の利である」ということです。知識や技術を用いるときにこの「自利が利他」であるという「こころ、気持ち」で人と関わることが大事です、より多くの「利を」人様に提供するための工夫でなければならないのです。
自分の利を考えてしまいますと「出口の無い悩みとなり」逆に人の利を考えれば「大いなる工夫」となり両者には天地の開きがあることを知って欲しいのです。
悩みでも心のありようで大いなる違いのあることを知って欲しいのです。

世界平和をお祈り致しましょう。ありがとう・心に華を咲かそう。     合掌