性を考える

おはようございます。

昨夜のお月様は黄色がかっていて何か幻想的な感じでした、今朝もお星様がキラキラとしてキンモクセイの香りが漂い爽やかな朝です。
昨日鳥栖に行き用事を済ませ帰ってきました。用事の前に吉野ヶ里遺跡に見学に行き、弥生から今日にまで続いているのが不思議です。基本的な生活様式は何ら変わっていないからです。
現代の私たちが弥生時代の人の暮らしは想像もできませんが、一つ一つ積み重ねてきた結果が今日に繋がっていることを思えば今日の暮らしを疎かに出来ないことが少しではありますが感じてきます。
そんな思いをしているとき博多で新幹線に乗ろうとしたとき号外が配られていて北朝鮮が核実験をしたことを知りました。
誰しも平和を望んでいるのは間違いのない事だと思います、いつも争うのはその「方法論」です、古代の時代から人類は争い「性懲りもなく」続けている、そう「性が懲りない」のでしょう。
「性」の問題も古来から続けられております「善か悪か」と、誰しも自分の「性を間違っている」とは思わないのです、だが争っている、ここらでお互いに衝突したら「互いが間違っている」のだという「諦観」を持つべき時ではないでしょうか。
「双方が間違っている」ということです。争って「心が静まるはずはないのです」上位者はこのことを私たち以上に考えるべきでしょう。
たとえ相手が間違っていたとしていても意見をするということは「穏やかでない」ことは確かなことです。だからこそ互いが歩み寄り「矛盾を越えて進むこと」が国家・個人の繁栄に繋がるのではと考えます。
個人と国家は違うと言われますが、私はそう大ききな違いは無いと考えます。違うとすればやはり指導者の個人としての「慢心」が違いを生じさせているのです。
誰しも生まれながらにして「指導者」ではないはずです、お釈迦様も指導者に成り得る立場に生まれながらそれを捨て「平和を確立」した事実を考えればこのことは自ずから明快ではないでしょうか。
根本に「平和を据えて」歩めば争いは無いのです。今日の指導者の方々にもう一度「性の在り方を考えて」行動発言して欲しいと願っております。
今夜は「にんげん学」京都講座です。是非皆さんとご一緒に平和を考え実践しようではありませんか、会場でお待ち致しております。

世界平和をお祈り致しましょう。ありがとう・心に華を咲かそう。        合掌